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異邦人への愛

  • taiwanchurchtokyo
  • 6 日前
  • 読了時間: 10分

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マタイ15:29-39「異邦人への愛」


29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。


30 すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れてきて、イエスの足元に置いたので、イエスは彼らを癒された。


31 群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。


32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物をもっていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」


33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」


34 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」


35  そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。


36 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。


37 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。


38 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。


39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。


 おはようございます。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。あっという間に6月です。今週あたり、梅雨入りするでしょうか。個人的には、雨の日は自宅でのんびりしていたい気持ちがありますが、桜やつつじの季節を過ぎて、最近種類が豊富になったアジサイの花を愛でる散歩もいいなあと思っています。皆さんはどんな風に雨のシーズンを過ごしておられるでしょうか。


 さて今日は新約聖書からイエス様と弟子たちの姿を通してみことばを味わいたいと思います。


 イエス様は、活動の中心地だったガリラヤを離れて、北の地中海沿いの地方ツロとシドンに行かれました(15:21~)。ここは当時、イエス様たちから見れば外国で、国境を超えたローマの属州であるシリヤの町でした。この時のことをマルコも同様に記しています(7:31-32)。イエス様は、その地方に住む女性の娘の悪霊を追い出して、それからガリラヤ湖に戻ってこられたのでした。


 シドンの地方と聞くと、旧約聖書にでてくる預言者エリヤのストーリーを思い出す方がおられるかもしれません。エリヤは干ばつと飢饉の中、主に導かれてシドンのツァレファテの町に行き(Ⅰ列王記17章)一人のやもめに出会い、「かめの粉は尽きず、壺の油はなくならない」という奇跡や、死んでしまった息子をよみがえらせるという奇跡を行いました。


 イエス様はルカ4:26でエリヤのこのストーリーのことを話していますから、ご自身の心の中に、当時ユダヤ人にとって偏見の的だった外国人や女性に対する優しい思いがあったのだと想像します。エリヤと同じ地方にイエス様も行かれ、外国人の女性の娘を同じように癒して帰ってこられたのでした。


 イエス様が帰ってきた場所は、マルコの福音書を見るとガリラヤ湖の「デカポリス地方」だったようです。ガリラヤ湖の南側にあたります。「デカポリス」とは「十の街」という意味で、そこには古代ギリシャのアレキサンドロス大王の後継者たちが建てた十の街がありました。街が生まれた経緯の通り、パレスチナにあるギリシャ都市として、ギリシャ語を話す移民を多く受け入れていたようです。つまり、この地方の住民の多くは外国の人、異邦人でした。


1.神の恵みは異邦人に

 ということで、v.30を読みましょう。


 デカポリス地方にもイエス様の噂は広まっていたので、大勢の群衆が病気や怪我などで弱っている人たちをイエス様に癒していただくためにみもとに集まってきました。すると、イエス様は一人一人を癒してくださり、それを見た人たちが驚き、イスラエルの神をあがめたと書いてあります。


 彼らが「イスラエルの神」と言っているところからも、群衆の多くは異邦人だったのだと分かります。この時、異邦人たちも、イスラエルの人々が信じている神様をあがめたのでした。


 このイエス様の奇跡のみわざは、旧約聖書イザヤ35:4~6の預言の成就と言えます。「心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやってくる。神は来て、あなたがたを救われる。』そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。」


 神であるイエス様が来て、彼らを癒し、救われる。カラっからに乾いた大地に水が湧き出し、川が流れる。驚くべき神様の救いのご計画は、イスラエルの民にとどまることなく、異邦人、外国人たちにも広がっているということを見ることができるのです。


 そして、イエス様の愛は、彼らの病を癒すだけではありませんでした。そこにいる人々のことを気遣ってくださいました。


v.32「かわいそうに・・・」と。


2.弟子たちの姿

 そんなイエス様のお言葉に対し、弟子たちはどのような反応だったでしょうか。


v.33 読む


①冷たい?!

 弟子たちはまるで「イエス様、私たちがこの人たちに、そんなことまでしなければならないのですか?」と文句を言っているかのようです。


 イエス様のみもとにやってきた異邦人たちは裕福で権力もあるような立場の人たちではありません。生活に困窮している人たちだったと思うのです。そんな人々に対して弟子たちの言葉は、現実的ですが、冷たさを感じてしまいます。


②3日間の無関心

 イエス様のことばから分かるのは、群衆が3日間イエス様たちと一緒にいたということ。その3日間、弟子たちは一緒にいながら彼らが空腹であることに気づかなかったのでしょうか。弟子たちは人々に対して「無関心」だったのです。


 確かに私たちの周りにも気づかない人はいます。正直に言うと、私も、困っている状態に気づかない人や配慮のない言動に苛立つことがありますが、そうは言っても私自身も気づかずに過ごしてしまっていることはあるのだと思います。反省します。


③不信仰かつ悟らない

 それにしても弟子たちはしばらく前(14章)に衝撃的な5000人の給食の奇跡を経験していたはずです。それなのに、今は「こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」と言っているのです!忘れるのが早くないか!?と驚きます。


 何度奇跡を見ても、いくらみそば近くで生活していても、弟子たちはイエス様のことを理解できていないことが露呈しました。イエス様ならできる!という信仰が彼らにはまだ備わっていなかったのです。イエス様の偉大な力を、深い愛を、この世界に来られた目的を悟ることができなかったのです。


3.人々の満腹

 一方でイエス様は、前回と同じように、パンと魚を受け取ると、感謝の祈りを捧げてからそれを増やして弟子たちに配らせました。すると、「人々はみな、食べて満腹した。」とあります。イエス様の話を聞いて満足したのではありません。実際に食べて満腹になったのです。7つのかごにいっぱいの余りが出るほどでした。マタイは今回の群衆の人数も書き留めています。「女子どもを除いて男四千人だった」と。


 実は五千人の給食の奇跡は4つの福音書すべてに記されているのですが、四千人と五千人両方を書いたのはマタイとマルコだけです。同じようにわずかなものを大勢の群衆が食べて満腹したという奇跡を、なぜ残したのでしょう。似たような奇跡から学べることは何でしょう。


4.2つの奇跡の共通点

①弟子たちに声をかける主

 2つとも、イエス様はパンを配る時、弟子たちに、手伝わせました。

 v.32→弟子たちを呼んで、イエス様の思いと願いを伝えてくださいました。これは彼らにとって喜びあふれる特権と言えるでしょう。

②パンの数を問われる主

 イエス様は弟子たちに尋ねて、そこにあるパンを確認させました。

「七つのパンと小さい魚少し」五千人の給食の時は「五つのパンと二匹の魚」

 イエス様は「あとどれくらいあればみんなのおなかが満たされるだろうか」とは言われませんでした。そこにあるものを聞かれたのです。


 私たちはどうしても足りないものに心が向きがちです。これがない、あれが足りないと悩むことが多いのではないでしょうか。そうではなく、むしろ、今持っているもの、主が私たちに与えてくださっている物に目を向けるべきです。主イエス様があなたに与えてくださっているものを見つめるべきです。与えられているものを人と比べて文句を言ったり、過小評価してはなりません。たとえそれがパン五つでも七つでも、イエス様はその数を聞いておられるのです。


 主からいただいている恵みを活かしていきましょう。


③配布係を任せる主

 v.36→弟子たちはイエス様から受け取って、配りました。七つのパンと小さな魚が増やされたので、弟子たちは地面に座った人々の間を縫って、配っていきました。


 こうやってイエス様はみわざを行われるときに、弟子たちに相談し、パンの数を聞いて彼らに配らせました。—――イエス様はいつもその宣教の働きを弟子たちと一緒になさっていたのです。


 もちろん弟子たちがいなければ困ってしまうようなお方ではありません。弟子がいなくてもイエス様は御業を行うことができます。けれどもいつもこうやって弟子たちを、主の恵みを分け与える者、人々に届ける者として用いてくださるのです。


 私たちも主の手となり、足となり、口となって歩ませていただきましょう。


5.パンから学ぶ

◆パンは裂かれた

v.36→イエス様は恵みのパンを感謝して裂かれました。


 どんなに小さな、わずかなものでも人々に分かち合われたイエス様。しかし何より、主イエス様の体も私たちのために裂かれました。それにより主を信じる世界中のすべての人々にまことのいのちが与えられたのです。教会の聖餐式でパンを裂き、私たちがいただくのはイエス様の御身体が私たちのために裂かれたことの象徴です。


 私たちは、イエス様のように身体を裂くことはしませんが、自分自身に与えられているパン、賜物を、独り占めしないで、神から預かった宝物として、感謝して皆さんと分かち合いましょう。

1ペテロ4:10「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」


◆主の恵みのパンは無駄にしてはいけない。

 イエス様は、無駄をなくされることに注意をしておられます。

ヨハネ6:12「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」


 私たちも主からいただく恵みを無駄にせず、管理・活用すること、後片付けをきちんとすることを心掛けたいです。やりっぱなし、適当な奉仕、管理、報告…ということのないようにしましょう。


Ⅱコリント6:1「私は神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。」


 あのツロとシドンの地方にいた女性も「主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」とパンくずの恵みを拾います。私たちにもそのような姿勢があるでしょうか。小さなものも大切にする。わずかなものに見えても感謝して受け取る…。みことばに従って歩みましょう。


 イエス様は一人の異邦人女性だけでなく、大勢の異邦人をも癒し、祝福し、満たされました。そうして異邦人への愛が確かに示され、伝えられたのでした。


 私たちも主の愛を周囲の人々に伝えましょう。


1.神様は私たちを通して、人々に愛のわざをなされます。


2.神様は私たちの賜物が分かち合われ、ささげられる所に、奇跡を行われます。


3.神様は私たちが恵みを無駄にしないことを喜ばれます。


あり余る恵みが溢れ出て多くの人々を祝福します。そうして恵みがさらに広がっていくのです。教会の中だけではなく、この町、この国だけではなく、まだ福音が伝わっていないところにも、愛と恵みが注がれていくように祈り、なすべきことを行いましょう。

 
 
 

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