神の聖さ
「レビ記19章2節 イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主である私が聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」
結論
神は完全に聖なるかたです。
神に近づくときに私たち自身も清められていきます。
神は私たちに完全な清めを求めておられます。
なぜなら心の清いものは神を見るといわれているからです。
神を見るとは神の臨在の中を歩むことであり、目で見ることはできない神があたかも間近くにいるような恵みの中を生きることができます。
聖なる者となることは、私たちの全ての部分を神の聖さの権威のもとに置き、服従させることです。私たちの内には様々なものがあります。
クリスチャンであっても、ある者は怒りやすい性質をもっていたり、落ち込みやすい性格であったり、兄弟を憎んでいたり、金銭や名誉を求めていたりと神以外のものに執着することがあるのです。
もし、神以上にそれらのことに心を奪われたり、囚われることがあるならば、私たちは神にそのことを祈り、取り扱っていただき神との関係をさらに整えていただく必要があります。
私たちが罪を犯した時や誘惑に会うときに、それに打ち勝つ力を与えてくださる方なのです。「ヘブル7:25ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」
全ての導きと解決を神様は豊富にもっておられます。
完全な聖さをあきらめないようにしましょう。私たちは神の清さを求め続ける必要があります。なぜなら清い者はあらゆよい技に間にあう者となると聖書は言っているからです。テモテ2:21
また、清さは偽善的に生きることではありません。それは、主と親密な関係になること、言えます。そしてなによりも親密な関係を神ご自身が求めておられる。
また、聖さは神様のご性質といえます。神は完全な方なのです。
完全な清さは、溢れるばかりの愛といえます。
主には清く汚れた所や不正が一点もありません。
神様が完全に清い方であるからこそ私たちは信頼する事が出来るのです。
神様は罪に対して妥協されることはありません。
どんなに小さい罪でも黙認することはないのです。
罪を必ず指摘し、悔い改めをせまり、赦しと開放を与えようとされます。
小さい罪を黙認しないことは人間的な視点からすると心が狭く愛が無いような感じがするがそうではない。なぜなら罪は私たちを傷つけ、束縛するからです。そして、私たちを永遠の滅びに招き入れます。
「伝道者の書10:1死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」
神は罪を犯す私たちに対して贖いという配慮を与えてくださっています。
自らを犠牲にし、罪人を清めてくださるのです。これほどの愛があるでしょうか。
旧約のレビ記を見ても生贄を捧げるという罪の贖いが律法の中にあり、
新約ではイエス様が自ら罪を負い、十字架で私達の罪の裁きを引き受けているのです。
福音は贖いが中心であり、神が贖ってくださり、義としてくださいます。
贖いとは、償ってくださることであり、罪を犯した責任を負ってくださることです。人間側の力で救いを得たのではなく、清さも神から与えられるものなのです。
人間は神様が与えてくださらなければ、神が求めておられる聖さに生きる事が出来ません。
「あなたがたも聖なる者とならなければならない。」とあるが、私たちはキリストに似た者となる必要がある。罪を離れ神に頼る近時に清くされていきます。証
罪から離れるとは人里離れた場所にクリスチャンだけのコミュニティーを作りこの世から隔離されて生きることではありません。罪や汚れは社会にあるのではなく、私たちの内側にあります。
「マタイ15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるからです。」
罪を離れるとは、私たちの内側にあるこの世の歩調から分離される必要がある事を言っています。「ローマ12:1~2 この世と調子を合わせてはいけません。」自己中心的な罪に歩む歩調を自分達の内から捨てる必要があります。
「聖い者とされる」ためには、私達は悔い改めて、徹底して罪を捨てていく事が必要があります。悔い改める範囲、神に罪を犯したならば、神に悔い改め、神と人とに罪を犯したならば、神と人とに悔い改める必要があります。
清く生きるとは、悔い改めないように生きる事ではなく。罪を認め捨て行く事が清い生き方といえます。
「聖い者とされる」もう一つの事は神様から取り扱われる必要があります。私達は困難や試練の中で、神様に従い続ける事によって、魂が練られ清さを造られて行く事を覚える者でありたい。
私達の最大の祝福は何不中なく暮らす事ではなく、神様の性質(聖さ)が私達の内にありありと形作られる事と言えます。
神様から憎まれているから試練が与えられるのではなく、訓練は私達が神の子である事の証拠なのです。「証」
「ヘブル12:6 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
12:7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
12:8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。 」
試練は私達にとって喜ばしい物ではない、悲しいと感じる時さえあります。しかし、どんなに小さい試練であったとしても一つも無駄なものやただの偶然ではありません。
人から受ける冷たい視線や、嫌味、軽く扱われる事、理不尽な態度、気に入らない状況それら全ての忍耐が必要な事は、神様からの訓練であり、神様の性質である清さを私達の内に造るものと考えられるでしょう。
私達は全ての試練を神様からの訓練としてつぶやかず、いらだたず、逃げずに謙って神様に従い、むしろ感謝を持って受け止めて行く者でありたい。
「ローマ11:36 全ての事が、神から発し、神によって成り、神にいたるからです。」
私達は訓練の時を無駄にしないようにしたいと思います。
無駄とは、人を憎んだり、心に苦い思いを神様に持ちながら暮らす事である。不平不満は神様の訓練を放棄する行為です。
もし私達が、いかなる状況でも神様の前にへりくだり訓練を感謝する事ができれば、神様の聖さがありありと建て上げられ、成長していく事ができるのです。
「ヘブル12:10 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。 」
私達は神様の聖さに期待をして、その恵みにあずかる者となりたいと思います。