あなたがいてくれてよかった

「あなたがいてくれてよかった」マルコによる福音書2章1−12  

鈴木雅也 牧師

おはようございます。皆さんに久しぶりにお会いできて嬉しく思っています。 皆さんは、最近、熱心に取り組んでおられることはあるでしょうか? 今、オリンピックが行われていますね。オリンピックに関連するもので、映像を用意しましたので、最初に見ても らいたいと思います。 VTR 彼の情熱が伝わりますね??

ところで、先ほど開きましたマルコ2章1節からの箇所は、中風といって、脳梗塞のために半身不随になった人を、 床に寝かせたまま、イエス様のもとに連れてきた4人の人が登場します。 床に寝ている人を運ぶというのは、それほど簡単なことではありません。実験してみましょうか? この4人の人はなぜ、中風の男を連れてきたのでしょうか? しかも、人だかりができているのを見て、諦めて帰ることはありませんでした。4節にあるように、その4人はイ エスのおられた家・・・つまり人の家の屋根をはがし、穴をあけて、中風の人をつり降ろしました。

人の家の屋根を壊してまで、イエスのもとに半身不随の男を何が何でも連れて行こうとします。 どうしてその4人はそうしたのか、別の時、別の日ではダメだったのだろうか? 想像ですが、この4人は、ある日イエスの噂を聞く。どんな病気も癒され、悩んでいる人々に癒しを回復を、奇跡 をもたらされる方だそうだ。そのイエス様が自分たちの近くに来られるらしい・・・と。
 そこで、この4人は自分たちだけで見に行こうと思ったのではありませんでした。彼らは、あの中風で身動きが取 れない、その人のことを考えた。そうして、彼らは中風の男を運ぶことにする。そこには少なくても二つの思いが ある。 一つは、今を逃したら次がいつになるかはわかない。いやむしろ、今こそ神様が与えてくださったチャンスだ・・ と、この「時」というものを彼らはキャッチした。 もう一つ、彼らに浮かんだ心は、イエスのもとに行けば!!という思いです。そこに回復のチャンスがある。どう にかなる奇跡が起こるかもしれない。 そう信じて4人の男は中風の男を床に寝かせたまま運ぶ。

床に寝ている人を運ぶというのは、それほど簡単なことではないことを先ほど私たちは確認しました。 この4人は、どのくらいの距離を運んだのかわからない。途中、何度休憩したのかわからない。でも、その度、彼 らは励ましあったかもしれない。イエス様がおられる時間は限られているのではないか。がんばろう。がんばって イエス様のところに運ぼう。きっとなんとかしてくださる。 そうして、人だかりもあり、何度も諦めたくなる状況を前にしながら、彼らは屋根に上り、壁となるものに必死で 挑んでいく。 この箇所が聖書中で独特の表現をしているとしたならば、それは、5節の表現です。 「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ。あなたの罪は赦されました』と言った。」 1

彼らの信仰を見て。すなわち、中風の人自身の信仰ではない。ここから言えるのは、この中風の人自身が、自分が 辛かったので、どうかイエス様のもとに運んでほしいと願ったのではなかっただろうということです。4人の友人 だったのか、たまたまこの中風の人のことを知っていたのかわからない人々が、とにかく一所懸命支え合って、こ の人をイエス様のもとに運んだ。その時に、イエス様は、4人の人の姿を見て、イエス様を求め、頼ったその姿を 見て、そこに信仰を見て、この中風の人を癒されるのです。 礼拝の最後には、祝祷と呼ばれるものがあります。 私は、その祝祷において、ここに集う皆さんの愛する家族のためにも祈ります。いや、祈りというよりも祝祷は、 もともと神様がしてくださる祝福の宣言です。ですから、神様がご自分の祝福の中に礼拝に集う私たちを引き込ん でくださり、加えてくださる、その恵みが家族をも含むものとして宣言するようにしています。


今年の2月、私の父は肺がんのため65年の地上での歩みを終えました。何度か教会に誘ったりもしましたが、父 は明確な信仰を持つことはなく、なんとなく、時々誘われれば近くの教会に顔を出す、とそんな感じでした。その 父は肺がん末期であることがわかってから、弱っていく自分を抱えて、なんでこんな風になってしまったのかと口 にしていました。 その父にも神様の恵みは与えられるのだろうか?それが病室に通う私の心に広がった問でした。・・・もちろん、 日々の生活に必要なものが与えられるとか、天気が守られるとか、いいことが起こるとか、そういったことを指し て恵みということもあるでしょう。
 けれども、そういったことをはるかに超えて、なんでこんな風に・・・と死を前にするしかない、うつむいてつぶ やくしかない、気落ちするしかない、そんな思いを翻すような、支えるような恵。 すなわち、大丈夫、私があなたを救うから・・・私は恵みをもってあなたにも臨むから、私の心のリストにちゃん とあなたも覚えられているからと・・・神様に捨てられるのでもなく、見離されるのでもなく、ああこんな私もちゃ んと愛してくださっているのだ、心に留めてくださっているのだ、ともにいてくださるのだと、どんな時にでも言 える、安心できる、そういう確かな心の平安にちゃんと預かることができるのだろうか。父もそこに加えていただ けるのだろうか。 どうぞ、父のことを見てください。忘れないでください。お救いください。そんな思いで、祈りつつ、何度も病床 に通いました。・・・そこで神様はちゃんと父のことをも覚えてくださっている、心に留めてくださっていると、 信じることができる。それが、単なる私たちの願いや思い過ごしではないとなぜ言えるのかといえば、今朝の箇所 が語るように、イエス様は本人の信仰や求めだけでなく、その人をとりまく人たちの願いや祈り、求めにちゃんと 心を向けてくださる方であるからだということにあります。 誰かが、家族のために必死で祈るとき、その祈りにイエス様はちゃんと耳を傾けてくださる。誰かが、友のために 祈るときその声をちゃんと聞いてくださる。その友のために仕え、手を伸ばす時、そんな私たちの努力をイエス様 はちゃんと見ていてくださり、応答してくださるお方です。 そもそも、ここで運ばれてきた中風の男は、自らの力でイエス様のもとには行けない人でした。自分自身の状況を 変える術も持っていないそういう人でした。私たちも時にそうです。 信仰が弱り果て、祈ることも、神様を見上げることも、教会に行こうと思うこともできない。状況が壁になって、 向こう側を期待することもできなく、心塞いでしまう。あるいは、もういいやなんて少しもよくないのに、諦めに

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居直ってしまう。あるいは、良くないとわかっていながらそこから起き上がり立ち上がることもできずに、まるで 良くないことの中で半身不随になってしまっているような状態にはまり込む。 私の場合、私をそうしたところから助けてくれ、救ってくれたのは、中学校時代の友人でした。彼に誘われて、初 めて教会に来た。それまでは教会に行こうとも、神様に救いを求めようとも、あるいはこんなにも愛して守られて いるのだということも知りもしませんでしたし、知ろうともしませんでした。 ある時は、神様を疑い、信じきることができず・・・信じるってそもそもなんだろう・・何の意味があるのだろう という、そんなところにはまり込んだこともありました。そのような時にも、友人のくれた一通の手紙が私を引き 上げてくれました。 更に、あの時にあの人がいたから、この人が気付いて声をかけてくれたから、メールをくれたから、家族の強引と もいえる誘いがあったからと、様々なことに支えられて今の私がこうしてここにいます。 皆さんも、あの中風の人が4人に担いでもらって来たように、誰かの支えがあったから今ここにいるのではないか と思うのです。 そういったことを振り返る時に、そもそも、イエス様の方から来てくださったので、あの4人は中風の人を連れて 行くことができたのだということに気づかされます。イエス様の方から、この中風の人だけでなくて、すべての人 をその救いに、恵みに、与らせるために来てくださったのだということを思わされるのです。 私をここに運ぶために、あなたにもと差し出された神様からの恵みと救いを受け取らせてくださるために、私に声 をかけてくれた1人目がおり、私を迎え入れてくれた2人目がおり、私を支え励まし導いてくれた3人目がおり、 私を心にかけ祈ってくれた教会の仲間、家族、そういう4人目がいた。そうして、今、私がここにいる。

イエス様は運ばれてきた中風の男に、罪の赦しを告げます。しかも、「子よ」とまず呼びかけます。因果応報とい う言葉がありますが、病気や悪いことが起こるのはその人が何か罪を犯したからだという考え方が、聖書の時代に 生きる人たちの根底意識の中にありました。ならば、病気でなく健やかに生きている人は罪と一切無関係に生きて いるかといえばそんなことは絶対にありません。嘘をつき、いやらしいことを考え、人が悲しむようなズルだって します。ならわなくてもそういうことはできる。そうやって悪に当たり前のように生きれてしまう人間の姿を聖書 は罪人と呼びます。ならば、私も罪人です。そして、当時の宗教感によれば罪人は神様の前に迎えてもらうことは できない。いや当時の宗教感だけでなくて、私たちの心もまたそのことを知っています。 罪があるとき、私たち は神様にいないでほしいとさえ思う。正しさの中に立つことが苦しくなる。自分だけ脱線しているようなみじめな 気持ちになる。祈れなくなる。喜んで歌うことができなくなる。 きっと礼拝から遠いところにいたであろう中風の人。宗教学者からでしょうか、どこか病んでいるために線を引か れ、普通でない自分自身に後ろめたい思いや、なぜ自分がという怒りや、様々なものもあったかもしれない、その 男に、イエス様は「子よ」と呼びかけます。 そして、罪の赦しを宣言される。あなたは赦された。あなたのすべては赦されたのだと。 この宣言に、神でもないのにそんなことをなぜ言うのか。神様以外に赦しを与えることのできる方はおられない。 神を汚しているのだと思いを広げる宗教指導者。彼らにイエス様は言われます。 8−11 罪の赦しを宣言することと、中風の人に起きなさいと言うこと、簡単なのはどちらか?どちらでしょうか??

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それは、罪の赦しを宣言することです。罪の赦しは外面に出来事として起こりはしないからです。むしろ起きなさ いと言う方が、人の目に判断されやすい。何も起きなければとんでもないペテンということになりイエス様に対す る人々の信頼も一気に失墜することになります。 ところが、こののちイエス様は起きなさいといって、実際に中風の人を癒される。なんでもできる神様ならば簡単 なことです。でも、なんでもできる神様にとって難しいのは、ご自分の正しさを曲げること。悪に目を瞑ることで す。無条件で罪を赦すことは本当は神様にはできない。 ですから、罪の赦しを告げるイエス様は、その人々の罪をそのまま背負いこんで身代わりに十字架で死なれるので す。それは、17節で言っておられるように、イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くた めに来たのです。」と言われたお方だからなのです。 正しい人は別に救ってもらう必要はないのです。でも罪人は赦しも救いも導きも必要なのです。そんな罪人を救う ために来たのだとイエス様は言われるのです。4人の信仰を見て、中風の人を救ったイエス様は、そもそも誰かが 助けてと言う前から、罪人を招くために、癒して救うために、恵みをもって来て下さったお方なのです。 だから、私たちは、あのイエス様のもとに行こう。大丈夫、君もちゃんと救っていただける。どんなところからで も、導いていただける。そう告げることができるのです。

天のお父様。私達のためにイエス様を遣わして下さってありがとうございます。イエス様は言われました。わたし は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために、救いを必要としているその人を救うために来たのだと。 その通りに、あなたは今日も私たちを招いてくださいました。ありがとうございます。 4人の人が、中風の人を運んだように、私たちの周りにも救いを必要としていながらどこにいったらいいのかわか らない友がいます。明日がその人と交わす最後の言葉だとして、どうぞこの人を救ってくださいと願わずにはおら れない、伝えるべきことをしっかりと届けられますようにと祈らずにはいられない、家族や友人がおります。 彼らのことを、決して上手ではないかもしれませんが、あなたのところに導くお手伝いがしたいのです。4人の中 の一人にしていただきたいのです。 どうぞ、4人の姿を見て応答してくださったイエス様。 あなたは憐れみ深 いお方ですから、私たちの友も家族も救いに導いてくださることを信じます。 あなたに信頼するがゆえに、伝え ていくことのできるそういう者として、私たちを導いてください。

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