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主は助けてくださる

主は助けてくださる

psm23:1★主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

結論:主が私たちを導き守ってくださる。

クリスチャンであれば誰でも信じていることですが、ただ信じるだけではなく信頼し、さらには神に期待するものでありたいと思います。

私たちは主に期待し神と共に歩む時、健康的な問題や、家族のことや、経済的な問題など様々なことを経験します。しかし、主とともに生きる歩みは乏しいことはないということを覚えたいと思います。

イスラエルでは1年の半分以上雨が降りません。5月から10月まで雨が降ることはめったにないので、牧場は緑ではありません。

ダビデは羊飼いであり、イスラエルの王となった人物です。

彼はその荒野を知っている人物であり、兄弟の中の末っ子、取るに足りないものからイスラエルの王となったのです。

社会の底辺も王としての歩みを経験した人物でした。

貧しさを知っており、裕福な暮らしも知っていました。

王になってからも数々の過ちや、王になる前から王になった以降も、様々な試練を通されました。王という権力を持っても自分自身を羊とたとえることができたのです。

彼は人生の歩みがいかに荒野のような厳しい状況が続くということを、知っていたのでしょう。

しかし、その荒野を見て全てを支配しておられる主に目を向けていたのです。

羊は近眼であり、自分だけの力では生きることができません。

ダビデは自分が生きていることは主の哀れみのゆえだと言っているのです。

psm23:2★主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主に信頼した結果、私たちは緑の牧場に伏すことができる、

羊を連想する時に草原を思い浮かべるかもしれませんが、しかし、先ほども言ったようにとても乾燥した土地ですので。乾いて茶色になった草を食べるのです。ごつごつとした岩地、不毛の丘の頂を含む地域、作物の成長にはおよそふさわしくない所に羊は連れていかれるようです。

では、なぜ緑の牧場に連れて行かれると歌っているのでしょうか。

それは、神が羊飼いであるならば、例えそこがどこまでも続く荒野であったとしても。絶大な祝福を与え、全ての必要を満たし、それを超える遥かな祝福を与えるという信頼と期待があったのです。

なぜなら羊飼いについて行くからだ、

先ほども言ったように羊は近眼で、近くに草があったとしても気が付かずに通り過ぎてしまうことがあるのだ、

しかし、主に従い、み声聞いて行く時に、豊かな牧場に着くことができる、

私たちは緑豊かな牧場を求めるが、見つけ出せないのは、

主についていかないこと原因があると言える、

主が与えてくださる牧場は足りて余りある豊かなものと言える、

psm23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御吊のために、私を義の道に導かれます。

私たちは多くの時に疲れを覚える、

すぐにやる気をなくしてしまう、

旧約の予言者たちもそのようなときがあった、

しかし、そのような状態にあっても主は私たちをはげます、

様々なことを通して励ましを与えてくださる、

大きな主の哀れみの中で、その哀れみに気が付かずに不平を言うことがあるが、

み言葉に従って行く時に、主の導きと愛を感じ知ることができる、

なぜなら、主に私たち自身が近づいていくからだ、

psm23:4★たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

以下、牧師の書斎から、BFP調べ

※ここで「むち」と訳されていることばは杖、こん棒、王笏と言う意味があるようです。この棒は、羊飼いが持っていた唯一の武器でした。このこん棒は羊を打つためではなく、野獣を追い払ったり、自分を守ためのものです。

鞭と杖とは、神の守りと、神の権威ある導きというかことができます。

「むち」と訳されるセヴェトשֵׁבֶט(shevet)は、「鞭、つえ、苔(しもと)、さお、棒、rod, scepter, 」などと訳されるが、「杖」と訳されたミシュエネトמִשְׁעֶנֶת(mishe`enet)は、ほとんど「杖」(staff)と訳されています。前者は、守りのための力の杖であり、後者は、導きのための支えの杖である。いずれも一つの杖が守りにも、導きにも用いられたと考えることができます。

◆聖書ではしばしば「杖」は権威の象徴であり、モーセは神から与えられた杖によって、神の力を引き出し、イスラエルのための民たちを導いた。紅海渡渉の時には、その杖を前に出すことよって紅海は二つに分かれた。荒野においてその杖で石を打てば水が出た。

また、「杖」とは、羊飼いが持っていた、長く、先がフック状になっている杖のを指します。この杖は、羊が群れから迷い出ようとした時に群れに連れ戻す為に使われました。

敵が襲いかかってくる死の陰で道を迷うことがあっても、もし主が羊飼いであるなら、その人を天敵から守り、群れの中に引き戻してくれるのです。そのような確信が、不安や不信仰との戦いの時にダビデの慰めとなったのです。

psm23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

様々な敵(困難の中で)祝福を与えてくださる。

以下BFP調べ

食事を準備し、整えて、食卓に招くとは、招こうとする者に対する招く者の歓迎の心をあらわすものであり、ここでは神の食卓に招かれた者の幸いを見ることができます。神の食卓に招かれること、神の食卓にあずかるということは、神の最高のもてなしを受けることを意味します。しかもこの食卓は「私のために(原文では「わたしの前に」)」整えてくださっています。

ユダヤ人にとって、共に食卓に着くということは親密さを表し、招く相手を最大級の好意をもって受け入れていることのしるしでした。彼らは心に一物のある者とは決して食事をすることはありません。ユダヤ人にとって、ともに食事をするということ、ともに食卓を囲むということは、親密さを表す行為なのです。

psm23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

八方塞がりでも主とともに生きる時に祝福が追いかけてくる。

神を求める。主は私たちのことを友と呼んでくださる。

また、私たちの髪の毛の数もご存知である。

私たちは主をともとしているだろうか。

私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

主を日々礼拝し、歓迎し、従い、知っていく者でありたい。

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