ダニエルの祈り

ダニエル10:10-14

ダニエル.バビロンのユダヤ人捕囚政治家と預言者として活躍した。(ヨシヤの治世でユダ王国で生まれた。前605年に捕囚となる。年齢は10代)

以下ダニエルが使えた王 バビロニア帝国.ネブカデネザル-ベルシァツァル-ダリヨス ペルシャ帝国.クロス王

クロス王はバビロンを破壊せずに征服した。バビロンが滅ぼされることはネブカデネザルの夢によって告げられており、ダニエルは2章でその夢を解き明かしている。ダニエルにとっては驚くことではなかっただろう。

エズラ記1:1-3ーペルシャの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャのペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。 ペルシャの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。

クロス王は神の導きにより、イスラエルの民を帰還させる。 おそらくダニエルはなぜこのような事態になったのかという事を神に伺うため熱心にエレミヤ書を読み調べていたのだろう。 ダニエルは9:2を見るとエレミヤ書を読み、イスラエルの民が70年の捕囚の時を経て帰還する事を悟る。そして、断食と祈りによって導きを求めた。

10章では、ペルシャ王クロスの第3年に示された預言が書かれている。

結論:目に見える戦いと目には見えない信仰の戦いを学ぶ。 大きな戦争がある事を幻の中で示され、御使がイスラエルのために戦っていることがわかります。これは私たちも置かれている状況であり、私たちがどのような境遇に置かれているのかがわかります。 私たちが祈る時に主が私たちのために戦われるのです。目に見える戦いの背後には、目に見えない霊の戦いがあるのだ、ということを覚えたいと思います。

10:1 ぺルシヤの王クロスの第三年に、ベルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。そのことばは真実で、大きないくさのことであった。彼はそのことばを理解し、その幻を悟っていた。 ダニエルは「ベルテシャツァル」と自分のバビロン名を名乗っています。公式の文書として書き残すために、公式の名前を使ったのでしょう。ですのでこの幻は重要なものであるとダニエルは判断しました。

 そして「そのことばは真実で、大きないくさのことであった。」とあります。11章を読めば分かりますが、その戦いの様子があまりにも現実で、規模の大きいもののようでした。ダニエルは、「そのことばを理解し、その幻を悟っていた」と言いました。

彼は一回目と二回目に幻を受けた時には、顔色が変わり驚きすくみ、おぼえていました(7:28,8:27)。その理由は幻を悟ることができなかったからです。幾度となく幻が示されていましたので、少しずつ理解ができるようになっていたのです。

10:2 そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。10:3 満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。10:4 第一の月の二十四日に、私はヒデケルという大きな川の岸にいた。

クロス王が元年に、ユダヤ人にエルサレム帰還と神殿再建の布告を出しましたが、エルサレムは瓦礫の山で、荒れ果てどこから手をつければよいか分からない状態であり、度重なる妨害があり工事は中断していました。

クロス王の勅令により既にユダヤ人達はエルサレムに帰還していますが、ダニエルは80を超える高齢者であったためバビロンに残り、エルサレムの報告を聞き心配し喪に服していたと言えます。

 ダニエルが断食をしているのは、彼らと共に苦労をともにし主の助けと祝福があるようにとりなしの祈りを捧げていたと言えます。

食事の一部だけを断っています。「ごちそう」「肉」「ぶどう酒」です。少しぜいたくな物はすべて控えていました。断食というと私たちはすべてを断つ、あるいは水だけを飲むことを考えますが、このように、ごく基本的な粗食だけをして時間を過ごすのも断食の一つです。そして、ダニエルは「身に油を塗らなかった」と言っていますが、当時はちょっとした身だしなみとして油を塗っていました。

キリストの現れ

10:5 私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。10:6 そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。10:7 この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。

キリストご自身と言われている。ヨハネも黙示録で同じように主の現れを見ている。

「それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(13-16節)」  イエス様はこの地上におられた時は、人の姿を取っており、人が慕うような見栄えもしませんでした(イザヤ53:2)。けれども、イエス様が高い山に上られたときに、その御姿が変貌したのを覚えておられると思います。「その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないような白さであった。(9:3)」

ダニエルが見た第一の人はイエス・キリストご自身であり、他に複数の天使がいて彼に話しかけていると思います。

そして、「ぺルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、」と語られます。

このペルシヤの君は堕落した天使の一人ですが、その抵抗によってダニエルの所に来ることができなかった、そしてミカエルが来て助けてくれたので私はあなたの所に来たのだ、と言っています。 ここで覚えておきたい事は神が弱いのではなく何らかの理由でこの事を許されていたと考える必要があります。

執り成しの祈りは非常に重要で神ご自身が動いてくださることがわかります。

10:8 私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。10:9 私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。

そして、10:10-11神が手を伸ばしてくださり、「神に愛されている人」と語りかけてくださった。

へりくだり、熱心に祈った結果、主はダニエルに答えてくださいました。 へりくだるとは神に従うこころ。

神は三度、ダニエルを励ましている。10:11.12.19

12節、私たちも執り成しの祈りはをささげ、時として答えがないと思うかも知れませんが、祈りは私たちが祈りはじめた時から聞かれているのである。

ここの箇所を見るときに目には見えない霊的な戦いがあることが分かる。

エペソ2:1-2そして、不思議な表現ではありますが、天にいるもろもろの悪霊とあります。

第2コリント12:を見るとパウロは第三の天に引き上げられたことが分かります。

「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(2コリント12:4)」ですので、天には階層がある事がわかります。

 私たちの祈りは霊的な戦いといえます。祈りが聞かれているのか聞かれていないのか分からないと感じる時や、絶望感、疲労感があるかもせれません。しかし、私たちの祈りは主に聞かれており、神のタイミングで応えられるのです。ですので、忍耐を持って祈り続けることが必要なのです。

エペソ6:10-12を見ると私たちは霊的な戦いに置かれていることがわかります。霊的な武具が説明されています。第2テモテ2:3にはクリスチャンは、キリストイエスの兵士と言われています。

兵士が戦場に行ったときには攻撃を受けて当たり前なのです。祈り始めて状況が悪くなったということは、むしろ悪魔や悪霊に打撃を加え始めていることの証しなのです。ですので、祈り続ける時に更に主が働き、勝利を与えてくださいます。

 この戦いは勝者が決まっています。信仰に立つ時に神が勝利されるのです。 「なぜなら、神によって生まれた者は、世に打ち勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(1ヨハネ5:4)」「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8:37)」「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。(2コリント2:14)」 以下、ダニエルが読んだエレミヤ書です。

エレミヤ29:13-14

私たちの祈りの中心は神である必要がありす。がみがなければ全て的はずれです。神ご自身を見つけるときに、私たちは本来なすべきことに導かれ、主と共に歩むときに祝福され困難に自然と打ち勝つ事ができます。さまざまな妨げがありますが、期待しら祈り続けるものでありたいと思います。

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