「主は今も生きておられる」

「第一コリント15:3-4 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。 キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに3日めによみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

「主は今も生きておられる」

今日は、死から復活されたキリストについて学んでいきたいと思います。

結論:「神は生きておらる。主の愛にさらに信頼しともに生きる。」 主は私たちとともにいて、※目には見えませんが目で見る以上の確かさを持って、私たちを愛し導いてくださいます。

※神は私たちを愛している。

申命記7:7「主はあなた方を恋い慕って」という感覚を皆さんは知っているでしょうか。

*主は死に打ち勝ち、私たちに永遠の命をお与えになりました。 神とともに生きる命、恵みと祝福に歩む道です。

主は今も生きておられるのです!

※主は私たちの罪のために死なれた。神は罪をお嫌いになります。

なぜなら罪は私たちを苦しめ傷つけ死をもたらすからです。

※罪の性質は私たちを正しく歩めなくする

罪は私たちに死をもたらすだけではなく罪の性質によって私たちは正しく生きることができないくなりました。

「罪に従って歩む歩みは神を無視し、隣人も顧見ることもなく、いつも自分中心に物事を見ています。」

※罪はとても残念なもので、私たちに死をもたらし多苦しみの原因なのです。

自己中心的な生き方は、いつも自分が正しいと思いまわりを裁き、自分はみんなから見捨てられると思い落胆したりします。そして、人を傷つけたり自分を傷つけていきます。

私たちが、いつも自分中心になってしまうのは罪の性質が原因なのです。 そして、その歩みの最終的な報酬は死であるというのです。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。ローマ6:23」と聖書は言っています。キリストの十字架は私たちが受けなければならなかった罪の裁きを、私たちの身代わりとしてお受けになったのです。

「罪から来る報酬は死」とあるように、私たちは罪によって死という刈り取りをしなければならなくなったのです。 罪に従って生きる時に人は死んでしまうというのです。譬え:罪会社ー自己中心的な歩みー報酬は死

「ヨハネ3:16 神は実にその独り子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じるものが一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。」

(聖なる聖なる聖なるお方が/両手を広げ/私を包む/その両手には深い傷跡/私にための/愛のしるし) 神は人となり、キリストは十字架で私たちの罪の身代わりとなりました。

しかし、神は、私たちの罪を許し、永遠に私たちが神とともに生きることができるように、 私たちの罪の裁きの身代わりとして、神の愛する独り子を十字架に架けられたのです。

*愛する独り子をお与えになることは、想像を絶する愛なのではないでしょうか。

「※親になって分かったことですが、親は子供がとても大切です。 赤ちゃんは何もできないのですが親にとっては宝もののような存在なのです。 何もできなくても、親にとっては子どもが息をしてくれているだけで尊く思える存在なのです。」

※子どもは親にとって大切なものでありますが、しかし、主は大切な独り子を、私たちの罪のために十字架にお掛けになったのです。なぜ、そのようなことをしたのでしょうか。

「※それは、私たちも同様に神の目には宝物ような存在だからなのです。」

「わたしの目にはあなたは高価で尊いイザヤ43:4」という言葉があります。

私たちは神の目から見て尊い存在なのです。

ヘブライ語で「נִכְבַּדְתָּ」と言います。尊いと言う意味には名誉に思う、という意味があるのです。 神は私たちの存在を宝物のように、また名誉に思ってくださっています。

私たちは自分自身の価値がないと思ったり、時として人がレッテルを貼ってくることがあるかもしれませんが、 人の価値を決めるのは人を造られた神です。(証)

主に愛されている確信を持ちその愛に期待するものでありたいと思います。

※十字架の愛 神は高価で尊い私たちが罪から来る報酬によって死んでしまうことを見過ごしにはできませんでした。 ですので、ご自身であり、独り子なるキリストを十字架にお掛けになったのです。

十字架は今でこそアクセサリーになっていますが、もともともは死刑の道具です。 当時のローマ帝国では見せしめ的な人が苦しんで死ぬ死刑だったのです。(十字架説明)

キリストの死と十字架は私たちと神とを繋ぐものです。

*神はご自身の命を捨て、私たちの命を救われました。 これは、どういう事かと言うとご自身の命より私たちの命を選んでくださったことなのです。

2つの宝があり、どちらかを選ばなければいけないとして、その内から1つのものを選ばなければならないとします。そして、2つの中から1つを選ぶこと事は、手に残している物は、捨てた物よりも価値あるものと考えていることなのです。

どのようなことかと言うと、神はご自身の命をすててまでも、私たち一人一人の魂を救おうとされているのです。

※十字架の愛を前にしてみなさんどのように生きますか?

クリスチャンであるみなさんにも問いたいと思います。 自己中心に生きますか、それとも神を中心として生きますか。

※十字架で死なれた主 キリストはその十字架で死なれました。劇では全地が暗くなったとありました。 その後、ヨハネ19:34には「兵士のうちのひとりがイエスの脇腹をやりで突き刺した」とあります。

これは何を現しているのかと言うと、兵士がとどめの一撃を心臓に加えたことがわかりますが、 血と水が流れて来る事は医学的に心臓破裂で亡くなっていたことが分かります。

これは何かと言うと、仮死状態ではなく確実に死んでいたことがわかるのです。 ですので、復活は仮死状態からの蘇りではありません。

*死に打ち勝ったキリストの復活を信じることは難しいとよく聞きます。

次は復活について、復活後の聖書の記述を見ていきましょう。

聖書を読んでいくことによって復活が信じるに値する出来事であることが分かるでしょう。 そして大切なことは今も生きておられる神を信じることが大切です。

※復活の説明の前に

その前になぜ、私たちは死からの復活や、永遠の命を信じることが難しいのでしょうか。 「それは、現在は死が当たり前のようになり過ぎているからだと言えます。」 私たちは余りにも死や不幸を受け入れすぎているのではないかと思います。

※永遠や復活が真実でないと思われがちですが、本来死こそ元々ないものだったのです。 人は死ぬ存在ではありませんでした。私たちは死ぬために生まれてくるのではないのです!

サタンに誘惑されることによって罪を犯し、人類全体に罪からくる報酬である死が入り込んだのです。

*本来、私たちは罪や死はなく神とともに生き、この地上を管理するために私たちは造られたのです。 (信じるべきことは死の不幸ではなく神から与えられる恵みであり、永遠の命なのではないでしょうか。)

復活の記事は4福音書に書いてあります。それだけ大事なことなのがわかります。 「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ」がそれぞれの視点から的確にキリストの死と復活を記述しています。 もし、真実な記述でなければ直ぐにボロが出てきます。

ですので、弟子たちの作り話しではないことがわかるはずです。 復活はイエス様の勝利のしるしであって、なくてはならないものです

*キリストは十字架にかかる前に復活を予告していました。 (それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、3日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教えられ始められたマルコ8:31.9:31.10.33) 

キリストは十字架にかかり、そして、死んで墓に葬られましたがそれで終わりではありません。 そして、死者の中からよみがえることによって、「死の力を打ち破る証を立てられたのです。」(ヨハネ20:9)

*復活はイエス様が死と悪魔に打ち勝った証なのです。

これは私たちの罪の赦しと、罪からくる報酬の死の束縛からの解放なのです。 キリストの復活は聖書の預言の成就であり、神が生きて私たちと共におられるという証です。

*イエスの復活の証拠こそ贖いの捧げ物が父なる神様に受け入れられたと言う答えです。 復活がなくては第一コリント15章に教えられているとおり宣教も信仰もむなしくなります。

イエス様が今も生きているからこそイエス様を信じることは意味があり祈って応えられるのです。

では、どのような証拠があったのかを見ていきましょう。

1:エマオの途上 エルサレムからエマオまでの11キロほどの道のり ルカ24:13-35 *目は遮られていて、(ἐπιγνῶναι)知ることができなかった

:彼らは政治的な救世主を求めていた。

ローマ帝国の属国:ローマ軍は占領国において人に命じることができた。 槍で肩を叩かれたものは命令を聞かなければならなかった。

*暗い顔つき: 復活を信じていなかった どれほど大切な事かを分かっていなかった。

25節:信じない心が鈍いと嘆かれる

*救い主が自分のイメージとは違うので心が鈍くなっていた。 あえて弟子たちにわからない姿で来たのではありません。

エマオの途上の弟子たちが復活を信じていなかったため、気がつかなかったのです。 神の栄光をお受けになったからだに変わりました。

2:トマスの告白(復活完全否定派)釘の跡をみて、指をさしいれ、脇に差し入れたら、

ヨハネ20:25 マリアも信じていなかった20:13 「誰かが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」 「わたしの主わたしの神」ヨハネ20:28

3:大勢の前に現れる 第一コリント15:6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。 その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。

4:「主イエスの復活の主を非常に力強く証した。使徒4:33」

※復活後の弟子たちの行動が大きく変わっている。

ペテロはキリストが十字架に架かる前に主を否定しました。死を恐れていたことが分かります。 また、初代教会の人々も集まって祈っていました。指導者が死刑になること不名誉のことではないでしょうか。

しかし、驚くほど大胆に彼らは復活の主を証し悔い改めを勧めたのです。 彼らの行動の著しい変化も復活の証拠と言えるのではないでしょうか。

※カヤパの骨壷、石棺「神への冒涜だ!これでもまだ証人が必要でしょうか!マタイ26:65」 「カイアファまたはカヤパはイエス時代のユダヤの大祭司。大祭司カイアファ。 現在では単にカイアファと呼ばれるが、正確にはカイアファの子ヨセフで、カイアファは父の名である。 サドカイ派。新約聖書にも処刑前のイエスを引見する場面で登場する。」

現在では単にカイアファと呼ばれるが、正確にはカイアファの子ヨセフ(יוסף בַּר קַיָּפָא Yosef Bar Kayafa イェホーセーフ・バル・カイヤーファー)で、カイアファは父の名である。

サドカイ派。新約聖書にも処刑前のイエスを引見する場面で登場する。 カイアファは大祭司であったアンナスの婿で、ローマ総督の任命によって大祭司となった。

これは当時のユダヤではハスモン朝以来の伝統で大祭司が王と同じように政治的な影響力をもっていたためである。 『マタイによる福音書』26:57では最高法院(サンヘドリン)による(イエスの裁判は大祭司カイアファの屋敷の庭)

*そして、初代教会の教会員の墓が見つかっている。 その石棺には名前が付いており以下の初代教会のメンバーの名前が彫られています。

• エルアザル(ラザロ) • ヤイロス • ヨハナン • ヨナタン • ヨセフ • ユダ • マルタ • ミリアム(マリヤ) • マッテア • メナヘム • サロメ • サッピラ • シメオン • ヨシュア ザカリヤ

* この墓はオリーブ山にある。 (使徒1:9-12 )復活の主にいち早く会おうとしているのではないか。 その墓には十字架の印が彫られている。これはどのようなことか、当時十字架は死刑の道具です。

イメージの良いものではありません。しかし、自分の石棺にこのような印をつけることは初代教会の人々はキリストの復活を見、自分も復活の恵みが与えられるという、信仰があったと言えます。

この暮石に記された十字架は、当時のむごたらし死刑の道具と言うイメージだけではなく、 主の復活の証人として、希望を持って彫られたと言えるのではなないでしょうか。

*復活したイエスは何をしておられるのか。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。ローマ8:34」

復活の主が今も生きて私たちのために執りなしてくださっています。 様々な試練や葛藤の中にあっても私たちの希望は失望に終わりません。

ヨハネ20:27信じないものにならないで、信じるものになりなさい 「見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20

「人は新しく生まれかわることができる。」

また、それが必要だといっています。 「人は新しく生まれ変わる事をしなければ、神の国を見ることができないというのです。」

私達は生まれ変わらなければいけないと言われる時に、多くの疑問が起きて戸惑うかもしれません。 「新しく生まれる」とは、もう一度生まれ直すのではなく、霊的な生まれ変わりを言っています。 霊的といってもややこしいことではありません。

簡単に説明すると「悔い改めて罪に従う生き方を捨て、神を認めて生きる事を言っています。」 これが新しく生まれる、新しい生き方です。

※「生まれ変わり、もう一度やり直せる希望、罪に支配された惨めな生活の終わり」

(あなたの愛に飛び込みます 必ず受け止めてくれるからから×4) 主の愛に飛び込んでください。必ず受け止めてくださいます。 友達も気の毒で声をかけられないほどのヨブは最後にどうなったでしょうか。 「例え、神に対して苛立ちを覚えたとしても主は生きておられるのです。」 試練や葛藤に囚われず主の愛に囚われてください。

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