主の戦いに生きる

『主の戦いに生きる』2018/04/08 川口竜太郎 牧師 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう出4:12

17:45 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、 わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、 イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。

17:46 きょう、主は、 おまえをわたしの手にわたされるであろう。 わたしは、おまえを撃って、首をはね、 ペリシテびとの軍勢の死かばねを、 きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、 イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。

17:47 またこの全会衆も、主は救を施すのに、 つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。 この戦いは主の戦いであって、 主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。

「主を仰ぎ見ていたダビデ」鏡のように主の栄光を反射させていた。

※主の戦いに生きる時に私たちは主から勝利を与えられ輝く

結論:「映えある生き方」とは 「神に信頼し、恐れず行動」する。 私たちが神と関わりを持つ時、主が共におられる

神と私たちの関係は「お互いを必要」としている。 信仰の戦いは神と私たちの共同作業。

神は私たちの信仰を喜び、「信仰の内に働かれる。」

共同作業と言っても、神が私たちのために戦ってくださる。 私たちは「一歩踏み出す」だけ。

※ここには、はイスラエルとペリシテ人の戦いが書かれています。1節 ソコでの戦い この「二つの国には大きな違い」があります。

イスラエルは天と地とを造られた唯一の神様を信じている国です。 生ける神 ともにおかれる方 「文化も生き方も神様を中心」としています。

おそらく、イスラエルの神は力強い神。 信じる者の祈りに応える神。そのことは近隣の諸国にも知られているのです。 彼らは神が偉大な御手をもって、「奴隷の地エジプトから救い出した」ことも知っています。

※モーセは海を分け、エジプト軍を追い返し、ヨシュアは日を止め、戦いに勝利しました。 「祈りによって神が働かれることを歴史的に知っている。」

☆一方ペリシテ人は人の手で作られた偶像の神々を信じている国です。

「神様は人を作られる方ですが、人によって造られるものではありません。」 彼らの信仰の土台には圧倒的な差があります。

生ける神がともにいる人々と、 動くことも出来ない偶像が共にいる人々との戦いです。

しかし、「力強い神が供におられる事を知っていながら、」 イスラエル軍は非常に不利な立場にありました。

※なぜなら、戦わずして勝つではなく、「戦わずして負ける」という状況です。

それは、「彼らが恐れの中にいた」からです。

※その原因はペリシテ人の代表戦士が一騎打ちを申し込んできたからです。

(第1サムエル記17:9~10) 「俺と勝負しろお前らが勝ったら奴隷となってやる。もし俺が勝ったら俺達の奴隷となれ。」 (17:10)

彼は17:4~7  3メートルくらいの大男で、44:286・51:331 当時鉄器時代の始まりだったので最新の武器を持っていたのです。 そんな、見た事もない大男に誰も1人で勝るとは思えなかったのです。

負けたら死です。

しかも、イスラエル全体が奴隷となってしまうのです。 想像しただけでもかなりのプレッシャーでしょう。

そして、この男は「40日間、朝早く、夕暮れ、1日2回」やってくるのです。 (17:16) ※「想像してください」 イスラエルの人々は非常に恐れました。 はじめのうちは、ゴリアテを見ると恐れ、「次第に思い出すだけで」も恐れ、 しまいには「絶えず恐怖を覚える」ようになっていたでしょう。

☆「主のよくしてくださったこと」を、思い出せさえすればまだ戦うことができたでしょう。

※彼らは「自分に勝つ能力があるかどうか」を考え「神に頼ることを忘れていた。」

※抱いている思いに注意する必要があります。

「恐れはサタンの攻撃手段」といえます。※疑心暗鬼をとり除く作業 恐れは敵です。 「サタンは恐れを心に植え込み」ます。

恐れの思いは私たちの「行動を消極的」にさせます。

※※※信仰の歩みが私たちを疲れさせるのではありません。 「心の不安が恐れが、私たちを疲れさせる」のです。

※私たちは囚われている思いから影響を受けるます。 ですので、「みことばに囚われ、主のよくしてくださったことを思い返す」必要があります。

(17:11) イスラエルの中でも「背の高い勇士がいました。それは、サウル王」です。 彼は、イスラエルのすべてのだれよりも、肩から上だけ背が高かったのです。

しかし、始めの内はサウル王は民のために戦う勇士でありましたが、 「次第に後方に構える王」となっていたのです。

全知全能の神様がついているのにもかかわらず、「祈る事も戦う事も出来ません」でした。

恐れによって信仰による「行動が抑制」されていました。 次第に「戦う気が全く無くなっていった」事でしょう。

※「神に期待することをやめた。」愛に留まることをしていない。

ついに「信仰は全くなく」なってしまって、 戦うどころか「このまま安全な所にいようと思った」に違いありません。

※実際は不安と恐れで戦うリスクはないが、「生きているとは言えない状態」

※私たちにもゴリアテのような存在はないでしょうか。 日本でクリスチャンであることはゴリアテを相手にしているようなものです。 私たちは「一人ひとりは主の戦いに置かれている」ようなものです。

私たちは時として困難や問題の中を通されます。 もし私達が困難や問題だけを見るときに、当時のイスラエルのようになってしまいます。

※※問題は「私達が問題に捕らわれるところにあります。」

私達が考え、悩むほど弱ってしまいます。 私たちは、主を信じて行動するよりも、あきらめてしまうかもしれません。

サタンは小さな問題を私達の目の前に持ってきて、いかにも大きく見せます。 「絶望や不信仰を心に植え付けてきます。」

なぜなら「元気なクリスチャンは悪魔にとって脅威」です。 特に若い世代の元気なクリスチャンはサタンにとっては驚異的な存在だと思います。 魅力があり多くの人が神様の下に導かれます。

サタンの攻撃は私たちに恐れを植え込み、「消極的なクリスチャンにする事」です。

私たちを恐れさせ、弱らせることにより、行動を消極的にさせ、信仰を持って行動させないようにするのです。

たとえどんなに大きな問題に思えても「神様の偉大さに比べれば全ては小さい」物なのです。

私達の神様は諦めることなく私達を勝利に導いて下さいます。 神様に解決できない問題はありません。 私達は忍耐を持って神様の救いを見続ける必要があります。

※ゴリアテを恐れていイスラエル兵のところに「少年ダビデがやって来ます。」 8人兄弟の末っ子 3人の兄が兵士 20歳徴兵

彼は戦いに出ている「兄達の安否を確認」するために、父から預かったパンを持ってきていました。 ダビデが兄達と会って話している時にゴリアテがいつもの調子で同じ文句を繰り返しました。

(17:23~24)ではイスラエル人はゴリアテの前から逃げ、非常に恐れていました。

しかし、ダビデは彼らと逆で、怒りました。(17:26)生ける神の陣をなぶっている 「神と、神を信じる者を馬鹿にしている。」と怒ったのです。

※「ダビデは神様を見ていました。」視点が神に置かれている。 ゴリアテの大きさや武器を見ていません。問題の大小に囚われていないのです。

※できるかできないかの判断をしている。 イスラエルの兵士はゴリアテに勝つ力が、自分にあるのか?と「自分の能力を見ていました」が、※しかし、「ダビデは御心にかなえばできる」という姿勢だったのです。

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「全知全能の方が供におられる事を信じて疑わなかった」のです。 信じたとおりに行動するとは大切な事です。

(17:32)でダビデはゴリアテと戦うと言います。

兄にうぬぼれるなと怒られ、サウル王には怒られるどころか「やめときなさいとなだめられます。」(17:33)身長比

彼らが止める事は「人間の経験や価値観であったら当たり前」だったでしょう。

※サウルが鎧をあてがう「 ダビデ逆ギレ」 17:38-39 王様が着せてくれた鎧は慣れていなくて着る事ができない。

「ダビデはサウル王のようにならなくてよかった。」自分自身、自然体が一番パワフル。

まだ、足りない「自分以外の何かになろうとすることサタンの罠。」 (サタンの嘘:木の実を食べればあなたは神のようになる)

※ダビデは羊飼い、戦士ではない、「神は羊飼いのダビデを主は用いた。」

(17:42)を見ると彼は「しかも羊飼いスタイル…。」紅顔の美少年だったのです。 ゴリアテはダビデを見て最初に言った言葉は、

「俺は犬なのか…」と言っています。

※「神は今の私たちを用いられる。」 そんなダビデが3メートルを超える戦士と戦う事はまずありえない発想です。 しかし、ダビデの決心は固く戦う事を諦めません。 (第1サムエル17:34~36)神様が必ず勝たせてくれると言い切っています。

ダビデは自分の名誉で戦ったのではありません。 「神様の栄光」の為でした。 ゴリアテの侮辱は、神を侮辱していたからです。

※私たちも腹をたてるならば、こうあるべき。 大概の場合、私たちは自分の名誉や、自分の正義のためにたたかう。 「自分中心の戦いはやめよう」

唯一の真の神様を心のそこから信頼していました。 私たちの信仰の戦いも理屈や理論ではない信じ恐れないと言う戦い。

そして、杖と石を取りました。 投石袋と石を持っていくことはわかりますが、「杖を持った」ことは不思議です。

実際、「杖を最後まで使うことはありませんでした。」 ゴリアテ自身もダビデの「羊飼いスタイル」を見て、 「俺は犬なのか?」と言っているのです。

※「杖は神への信頼の現れ」です。

「杖」とは、羊飼いが持っていた、長く、先がフック状になっている杖を指します。 この杖は、羊が群れから迷い出ようとした時に群れに「連れ戻す為に使われました。」

「詩篇23あなたのムチと杖、それが私の慰めです。」 敵が襲いかかってくる死の陰で道を迷うことがあっても、もし主が羊飼いであるなら、 「私を敵から守り、群れの中に引き戻してくれる」のです。 そのような確信が、不安や不信仰との戦いの時にダビデの慰めとなったのです。

そして、「杖には傷をつけたという説」を聞いたことがあります。 それは様々な節目に傷をつけたようです。 その傷によって、「主が良くしてくださったことを覚え続けていた」ようです。

ダビデは主が「良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と詩篇で歌っています。 彼は、この戦いを主の戦いと信じ、信頼したのです。

戦いの時ダビデはゴリアテに言います。(17:45~47) 私達もダビデのように神様を信じ信頼し、

※神のために立ち上がる者に主は力を与えられる 全ての困難、災い、悩み、苦しみ、に対して 「この戦いは主の戦いだ。主はお前達をわれわれの手に渡される。」 と告白して行きましょう。

ダビデはゴリアテを目の前にしても、そのように告白しました。 私達も時として、目の前に「ゴリアテ以上の困難が迫って来るかも知れません」が、 大胆に神様の救いを期待しましょう。 (ヘブル10:35~39)絶望の先に希望がある「息吹証横浜」

信仰の戦いを表しています。 信仰の戦いは一人ひとりが戦わなくてはならない。 勝負は一瞬で決まります。杖と投石機、五つの石と。 なぜ五つか

💫「第二サムエル21:16~22」(17:48~49) あれだけ長い間イスラエルの人々を苦しめ、 悩ませていたゴリアテは石ころ一つで死んでしまいました。

ダビデには、投石器で戦いました。 投石器は最新の武器ではなく皮製の紐に近いものです。

ダビデの投石の技術が高かったから勝てたのでしょうか。 それともゴリアテのかぶっていた兜はおでこがむき出しになっているのだったのでしょうか。

むしろ逆に額は守られていたでしょう。 目が見える最低減の隙間しかなかったはずです。

💫そこに一撃で当てる事はまさに神様の奇跡です。 「ルカ1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

「神と人との共同作業。」神とともに勝利を摑む。

ダビデは普通の人間でした、彼らが勝ったのではない。 しかし、彼らは「神とともに勝利を収めました。」神に用いられたのです。

神もまた彼らを信頼し、彼らとともに行動をしたいと願われたと言えます、

「なぜ私たちは日本に生まれてきたのか、」なぜキリスト教圏で産まれて来なかったのか、 それは、「主が祝福の基として私たちをここに置かれた」からなのです。

キリスト宣教、悔い改めなさい、天国に行けます。 とは語っていない「神の国が近づいたから。」 ※「神の国は来ている。私たちの只中にある。」

ダビデの戦いはまさに主の戦いでした。

💫私達が困難な状況に置かれる時、 神は私たちと共に行動することを願われています。

皆さんは主の戦いを 戦っているのです。 主が共におられます。ダビデのように他の誰かになる必要はありません。 「今の皆さんを用いて偉大なみわざをなすのです。」

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