マグダラのマリヤ

―復活のイエスの最初の証人となったマグダラのマリヤ―

結論:ヨハネの20章を見るとき、彼女に焦点が当てられて復活の記事が書書かれていることが分かります。他の女性もいましたがマグダラのマリアはまるで主人公のよう記されているのです。 おそらくその理由は彼女は復活の第一目撃者であるということと、福音を一番初めに他の人々に伝えた人物だからだと思います。今日はマリアの信仰から、キリストにフォーカスして生きることを学びたいと思います。

復活の日のマリアの行動を見る時に、マリアの中にはキリストを求める心以外ないことがわかります。時として、信仰の戦いは激しいこともありますが、主ご自身にフォーカスしていく時に神からの解決が与えられるのです。

聖書にはマリヤと言う名前の者が5人ほどいます。 イエスの母マリヤ、ベテスダのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、 ヨセの母マリヤ、そしてマグダラのマリヤです。

ヨハネの福音書にはマグダラのマリヤと、主イエスの会話が記されています。これはヨハネの福音書特有のもので、これは共観福音書の記者たち―マタイ、マルコ、ルカは記していません。

ヨハネは、このマグダラのマリヤに対して特別な関心を払っていることがわかります。

それは、復活されたイエスが最初にご自身を現わされたのは、 なんとこのマグダラのマリヤだとしているからです。

イエスはこのマグダラのマリヤにもニコデモやサマリヤの女のように「きわめて重要な事柄」を示しています。

また、復活の事実の第一発見者とし、他の者に最初に伝える者とされたのです。主が復活の第一発見として選ばれたマリアはどのような人物だったでしょうか。

マグダラのマリヤについて、四福音書がはっきりと語っているのは次の事です。

彼女はー ①七つの悪霊に憑かれた病をイエスによって癒された者であること。 ②十字架についたイエスを遠くから見守り、 その埋葬-といっても仮の埋葬ですーを見届けたこと。 ③イエスの墓に行った女性たちの一人であること。

悪霊に憑かれていたものですから、周りの人々にも噂され、距離を取られ孤立し孤独であった可能性があります。また、本人自身もコンプレックスや心に傷があったことと思います。

イエスの墓に行ったのはマグダラのマリヤだけでなく、 数人の女性であったにもかかわらず、 ヨハネはこのマグダラのマリヤに対して、 特別の関心をいだいているのです。

ですから、墓に行ったのも彼女ひとりであるように記しています。これはあるメッセージを伝えるために、 意図的にそうしているのではないでしょうか、

その意図には様々な理由があると思いますが、 マグダラのマリアを見る時に、 イエスを求め探し続ける強い意志を感じるのです。

聖書を読む時、神が私たちを特別に愛していることがわかります。日本語では愛という一言ですが、 新約聖書が書かれたギリシャ語では愛の表現が四段階あります。 エロスー恋愛的 フィリアー友情信頼 ストルゲーー家族愛 アガペーー神の無限の無償の愛

その中でも完全な愛、アガペー 神の無限の無償の愛が私たちに注がれているのです。 「私の目にはあなたは高価で尊い 」 クリスチャンであれば何度も聞いた言葉かもしれません。 しかし、この恵が当たり前のようになっていないでしょうか。

神の愛を、ただ知識として知っているだけでは足りません。 神の愛に期待しているでしょうか。 ただ、知っているのではなく信じているでしょうか、 信頼しているでしょうか、私たちは信頼に留まらず、 期待と喜びを持って、主の愛のうちに生かされたいのです。

.神の評価に心を留める必要があります。 自身で自分には価値がないという思う時があるかも知れません。または他の人が様々な評価をしてくるかも知れません。

私たちは人の評価や、自己評価で一喜一憂しますが、 しかし、それは真理ではないのです。

人の価値を決めるのは人ではなく神です。 能力ではなく私たちの存在自体が神にとっての喜びなのです。 いかがでしょうか、生まれたての赤ん坊のや子供を見るときに、能力があるないを抜きにして、その存在に喜ぶと思います。

赤ちゃんに対して自分でトイレも行けないのかと怒る母親はいません。何もできないけれども、その赤ん坊が生きていること自体が喜びなのです。

そのような愛で生かされていることを再確認し、 再発見する必要があります。

なぜなら主は私たちの悩やむ心を知ってくださり、 生活の細部に至るまで気にかけてくださっているからです。 主が諦める魂はなく、一人もご自身から離れることを望みません。

これはどのようなことかというと、 主ご自身が私たちとともに歩みたいという現れなのです。

悪霊に苦しめられていたマリアは、そのことを深く感じていたと言えます。彼女の行動を見る時に話が上手いタイプには言えません。説明も下手だったんではないかと思います。

しかし、誰よりも神の愛を理解しその中で生きていたと思います。

主は私たちの罪のために死なれたました。 それは全ての人の罪のためです。 神は罪をお嫌いになります。私たちは罪を犯すなと教わりますが、それは私たちを束縛して偽善的に生かすためではなく、w足したちを罪から守るためなのです。 罪は私たち傷つけ滅ぼします。主はその滅びからご自身の命を捨てて、私たちを救われるのです。

十字架で命を捨てるとはどのようなことでしょうか、ご自身の命より、罪人である私たちの命を価値あるものとしてくださった現れと言えます。

.1節を見ると、キリストの復活は、安息日が明けた日曜日の朝早くの出来事ということがわかります。イエスの埋葬は安息日の日没前に取り急いで行われたものであったので、香料を塗るために朝早く女性たちは来たと言えます。

:しかし、その中のマリアは悲しみの生に未だあり、遺体であったとしても、慕っていたキリストを一目見たかったのだと思います。

祖父の火葬 無くなっていることが分かっていても離れたくなかった .しかし、イエスに会おうといち早く墓に来ましたが、石は転がされており、安置されているはずの遺体がありませんでした。

.その光景を目の当たりにしたマリアは、誰かがイエスを取って行ったと思いました。そして、ペテロともう1人の弟子に伝えました。もう一人の弟子とはヨハネと考えられます。

マリアのショックは非常に大きく、動揺しその場で泣いていました。頼りにしていたイエスを十字架で失い。失望しているところに、さらに追い打ちをかけるかのように遺体がなかったからです。

おそらく、本当にただ泣いていたに近いのではないかと思います。私たちも何の手立てもなくただ泣くことがあるのではないでしょうか。

男性であれば涙は流さないかもしれません。 しかし、ただなすすべもなく立ちすくみ、 現状を見守るしかない時もあるのです。(キキ証)

マリアは子供のようにただそこに泣いていました。 小さい頃はただ泣くことができましたが、大人になるとそうはいきません。しかし、覚えておきたいことはここにいる一人ひとりは神の子どもであり、神の前で祈り泣き、立ちすくむこともできるのです。

4:弟子たちの気づき .マリアの確認はただ見た確認であった ブレポー (1節) 彼女はパッとみて盗まれたとを判断しています。状況の確認をしていません。

.弟子たちの確認は 注意深いものであった セレイオウ(6節) 周りの状況を確認して、盗みではないと判断しました。なぜなら、遺体を巻いていた布がかたずけられていたからです。盗むならば布を取る必要もありません。

.見て信じた。さらに注意深く確認(ホラオー)し状況を把握したと言えます。(8節)これは様々なことを悟ったとも言えるでしょう。

弟子たちはマリアが「遺体がとられた!」との報告を聞き駆けつけましたが、布が残っていたり、イエスの言っていた復活の話を思い出し、遺体が消えたことは盗みではなく、何か他のことが起こっているとを感じ始めていたと言えます。

祭司長やパリサイ人でさえ、キリストが息を引き取った後に、「自分は3日後に蘇る」と言っていた言葉を思い出していたからです。そして、弟子たちが遺体を盗んで「主は復活された!」と騒ぎたてさせないように、墓には大きな墓石てで墓を封印し、番兵を置いていましたので、彼らがイエスの言葉を思い出さなかったわけがないと思います。

いうならば十字架に付く前に言われたキリストの言葉が頭に巡っていて、もしかしたら生きているのか…まさか…という心境だったのではないだしょうか。

5:しかし、依然として状況を理解できないマリア .弟子たちが気付いても一向に同じ状態で、泣いていたのです。 とにかく、主に会いたいという心の表れといえます。 マリアにとっては、状況がどうあるかということは関係ないようです。

また、驚くべきことに御使を前にしても、態度は変わらなかったのです。(12節) マタイ28:4には稲妻のように輝いた御使を見た番兵は、恐ろしさのあまりに震え上がり死人のようになったと記されています。

.誰よりもキリストを求めていた 私の主、と言っている(13節)

.キリストがマリアの後ろに立たれる それでも気が付かないマリア。何故気が付かなかったのでしょうか、シクシクなくのではなく、あまりの悲しさによって泣き叫んでいたと言えます。

キリストは弟子たちではなく、悪霊に取り憑かれていたマリアに最初に現れてくださいました。

.すがりつき 伝える(17節) 「すがりついては行けない」と言うことは、私に頼ってはいけないと言う意味ではありません。

「私が神ものとに上る、天に帰るので、あなたはこれから前進して私が復活したことを伝えて行きないさい。」 「あなたは一人ではない聖霊を受け取り、私が死の力を打ち砕いたので、死に打ち勝つ恵が全ての人々に用意されている、だから立ってここから出ていき、私の復活を伝えなさい。と語っているのです。」

.わたしの兄弟たち 主はまだキリストの復活を信じていない弟子たちを、「わたしの兄弟たち」と呼ばれます。

ここにいる私たち一人ひとりにも「わたしの兄弟たち」他の箇所では「友よ」と親しく呼んでくださるのです。

.主が用いられる者とは

6:主を求めるものにはご自身を現してくださいます。 .見には見えないが見える以上の確かさを持って .日本は祈られている (試練の中で)

7:何のために生きるのが .生きることはキリスト死ぬこともまた益です ヨハネ6:31

私たちはクリスチャンであっても人間関係の問題や、経済的な問題と様々な事柄に心を奪われます。

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