私たちの神を知る

「私たちの神を知り、私たちに対する神の思いを知る」 神の視点から私たちをみるー聖書箇所:イザヤ43:1-4 isa43:1★だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、 主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、 主はこう仰せられる。 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。 わたしはあなたの吊を呼んだ。あなたはわたしのもの。 isa43:2★あなたが水の中を過ぎるときも、 わたしはあなたとともにおり、 川を渡るときも、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 isa43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、 あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金 とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。 isa43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。 申命記4:7 私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。 イザヤ43:4 「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」 神様は私たちの事を高価で尊い宝物のような存在であると言うので す。 私の目にはあなたは高価で尊いという言葉の中にはנִכְבַּדְתָּ高価で、 「名誉に思う、誇らしく思う」という意味も含まれているそうです。 また、「だが今ヤコブよ」とあるように罪人を愛する主であることも わかります。 別の聖書箇所では※神の民を「恋い慕う」と言う表現が使われていま す。また、クリスチャンはキリストの花嫁と言われています。 これは、「神の方からの歩み寄り」があるのです。 神の視点から私たちを見るならば、私たちは「神の方から歩み寄りた くなるような価値の高い存在」なのです。 結論 「神は私たちを価値あるものとして認めています。 そして、あなた自身は神にとって必要な存在なのです。」 今日はそのことを知って欲しい。 「恋い慕う」と聞くと「恋愛」を想像するかもしれませんが、神の愛 は人間の愛とは違います。人の愛は条件付きのもので、「可愛いから 愛する。」「一緒にいると得だから愛する。」「家族だから愛する。」 と何かと条件が付くものです。 これはどう言う愛かというと、「自分が中心」になってさまざまな条 件を付け、愛するかどうかを決めているのです。 ※しかし、神の愛はそのようなものではなく、「無条件で、無償で、 無限の深い愛」なのです。 これは私達に高価で尊い能力があったから、人よりも何かができるか ら、という「条件によって変わる愛」ではありません。※知識として 伝えること、知ることはできるが、体験することが難しい。 (息吹証)「赤ん坊は何もできないが、親にとっては宝、大きくなる につれ、成績や偏差値や、比較によって条件が発生する」「私たちを 無価値だと言う人がいるかもしれません。自分で無価値だと考える時 もあるでしょう。しかし、人の価値を決めるのは、人を造られた神な のです。」 神は、無償の愛で、私たちをありのままで愛する方なのです。 確かに私たちの内には※そのままで良いことばかりではありません が、「もし今日、神を求めるならば、※ありのままで神に受け入れら れ、神は私たちを祝福してくださるのです。」 神の無償の愛というモデルケースはなかなか提示することができな い。「私たちは信仰に歩むことよって、(信頼.期待.感謝)体験しなけ ればならない。」しかし、知識で留まらないようにしたいのです。 神に愛されることは、非常に不思議なことで、何か善行を積んだ、能 力があるから、知識があり理解しているからではなく、 「信じるならば神と共に生きることができるのです。」 そして、「ひとたび神を求め、聖書の言葉に従うならば、神は私たち を愛し祝福してくださる」のです。 1:前半にヤコブはイスラエルという名前があります。同一人物です。 ヤコブの名前の意味は「かかとを掴むもの。人を出し抜く、引き摺り 下ろす」という意味があります。しかし、彼は御使との格闘の後に、 イスラエルという名前をもらいました。 (創世記32:24~28) 実際、ヤコブ歩みを見る時に、彼は名前の通りの人生を歩みます。 父と兄を騙し、兄から長子の権利を奪います。 そして、叔父のところに逃げ、その後は、叔父の元で20年間働くこと になりました。しかし、叔父のところにもいられなくなり、「20年ぶ りに故郷に戻ることになり、兄と再開」することになりました。 その時、ヤコブは騙した兄の復讐を恐れます。「非常に恐れ心配した 32:7」彼は兄と会う前日に報復を恐れて、ヤボクに一人留まり夜 通し祈ったのです。良心の呵責もあったでしょう。 ※すると一人のみ使いが現れ格闘となります。 ※ポイント:これはヤコブから求めたことではなく、 「神からの歩み寄り。」「葛藤や困難」は「御使との格闘は神からの 取り扱い」と考えることが大切なポイントです。 ※自己主張の強い私たち 「25節ヤコブに勝てないのを見て」とありますがこれは神が弱いの ではなく、 ※「ヤコブの主張が強く取り扱うことができなかったのです。」 彼が取り扱いをはねのけている。 「ヤコブは神に助けを求めながらも自己主張を貫き通し、 助けは欲しいが自分の問題は指摘されたくない」という状態であった のです。 そして、御使にモモのつがいを打たれます。 モモのつがいとは腰の部分であり、腰は体を支える重要な部分です。 これはただ肉体をうったのでなく、「ヤコブの頑なな心を打ち砕き、 神の前にへりくだる弱いものとされた」のです。 ※祝福を強く願った 続けてヤコブは「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせま せん。」と続けます。「Piel 強意形 私が祝福されるように、それま ではさらないように!」と神様にしがみついたのです。 ※「みなさんそのような思いはありますか? もし、そうでなかったら神をあきらめている理由は何ですか?」 27節で、御使はあなたの名は何かと聞きます。 「この問いはヤコブ自身に対しての問いであり、どうしてこのように 祝福を求めることに至っているのかということを聞いている」ので す。 ですので、ヤコブと答えますが、※これはただ名乗ったのではなく悔 い改めといえます。 「私はかかとを掴み人を騙すという名の通りに、生きてきました」と いう悔い改めの思いがここにあることがわかります。 ※即座に祝福される  そして、神は悔い改める者には祝福をお与えになります。 「28節あなたはヤコブとは言われないイスラエルだ。」イスラエル という意味は神に勝った者、神と戦った者、と訳されていますが、神 の前に弱くへりくだり神からの祝福を受けるものとなりました。「祝 福されるために時間はかからない」 そして、私達もキリストを信じるならば罪に支配され自己中心に生き るヤコブであったが、十字架の身代わりの贖(救い)によって神様の 民(イスラエル)とされるのです。 ※神は私たちを造られた 1節「あなたを造り出した方、あなたを形造った。」とある。 時として私達は自分の力で生きているような錯覚に陥るがそうではな い。 確かに私達は神様から造られた存在なのである。私たちは、偶然生ま れて、自分の力で生きているのではありません。神に作られ、命を与 えられ生かされているのです。 「私たちは神に造られたものであり、神の作品」 人は創造の冠として造られた。「神の息が吹き入れられ」て生きもの となった。 創世記2:7神の霊は息、風、という意味があり、 「私たちの一息一息が神からのも」と言えます。 考えてみると心臓一つをとっても、私たちにはコントロールすること ができません。 また、人生の途中まで猿だった人はいるでしょうか。 神は人を生かし、成長を与えられるのです。 頑張って成長しようと思うかもしれません。 私達は生かされている事を深く知り、神様に大胆に頼る必要がある。 神様に頼る事によって、信仰の成長を与えられる。 「第一コリント 3:6,7私が植えて、アポロが水を注ぎました。 しかし、成長させたのは神です。」  ※神は私たちを罪から贖う 1節後半「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなた の吊を呼んだ。」 ※3:神は私たちを罪、咎、煩いから、贖い救われる方 「全ての人は罪を犯した、とあります。ローマ3:23」 犯罪者の中だけに罪があるのではなく、 「神を無視することによって人は罪を犯し続けるようになった」ので す。 ※「神は罪を嫌う、なぜなら私たちを傷つけるから」 罪は心の咎となり、罪悪感となり、恐れ変わる(恐れるな) ※十字架、主はご自身の命をお捨てになり、私たちを救われた 神は私たちの罪を背負われる方であり、私たちの罪の身代わりとなり ました。 「キリストの十字架」は「私たちの罪を贖うのです、」「神が罪の事 実を忘れてくださる」 十字架はご自身の命を捨てて、私たちの命を得られた。 キリストの十字架は神が、罪人に対し「救われてほしい」と懇願する 姿と言えます。 そして、「悔い改め、神に近づくものには祝福を与えるのです。」 ※関わりを持つことを願う神、 1節後半「私はあなたの名を呼んだ。」とあります。 名を呼んだとは神ご自身が親しい関係を「私達個人」と持とうとされ ている現われです。 「私はあなたを呼んでいるよ。」偶然、ここにいるのではない。 そして、全てを造られた神様は「あなたはわたしのもの。」と言って 下さるのです。   私達自身は誰もが欲しがるような、素晴らしい人材でしょうか? 私達が一番私達自身の汚れた所を知っているでしょう。 しかし、そのことを知った上で私たちの名を呼び十字架に命を捨てる のです。 ※1万円をクシャクシャにしてしまったからといって価値が下がるわ けではない。 「私達は学校で傷つき、家庭で傷つき社会で傷つき、罪で傷つきボロ ボロになる。」 私達が神様の所に行く時に一つ一つのしわを伸ばし傷が癒され回復し ていくのです。 ※主は私たちを助け導く 2節。「あなたが水の中を過ぎるときも、私はあなたと共におり、川 を渡るときも、あなたは押し流されない。」 :私達は時として、水の中を通りすぎるような苦しい経験をします。水 の中は本当に苦しい、いつ終わるのかもわからない苦しみである。 また、「川を渡るときも、」川の急な流れを見るときに、私たちは自 分では向こう岸には渡れないと思うような、越えられないチャレンジ があるかもしれません。 (恐れて一歩も踏み出せない)しかし、「私達が諦めて恐れ退いてし まう時にも神様はともにいて助けてくださるのです。」私達ができな くても神様ができるのである。神様が解決できない問題はない。例え 小さな信仰でも、偉神様が解決して下さる。 「息吹:力徒 ナアマンみ言葉、 証」 絶望の後に救いが始まる。 神様を信頼するとき「試練は栄光に変わります。」 しかし、神様を諦める時に栄光に背を向ける事になる。 主は言われる。私について来なさい。 「あなた方は世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさ い私はあなたとともにいる。」「エリア君証」 (第一コリント10:13)「あなた方の会った試練はみな人の知ら ないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を 耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさいませ ん。むしろ、耐えることのできるように、試練と共に、脱出の道も備 えてくださいます。」どんなに困難に囲まれても、天に祈るという道 は塞がれることはない。 私達は神様から(天から)困難に打ち勝つ力を与えられる。 私たちはヤコブのように神様に力いっぱい、向かって祈り続けるもの でありたい。 誰にも祈りをとめることはできない。唯一やめてしまうのは自分) 「火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかな い。」火で焼かれて殉教した多くのクリスチャンがいる不思議な言葉 である。天に国籍を与えられている私達は、死んでも生きるのであ る。永遠の滅びはない。火のような試練の中を歩いたとしても、魂が 滅びることはない。( 殉教26聖人) たとえ肉体が滅びたとしても地獄のゲヘナの炎は私達に燃えつかな い。それはイエス・キリストの十字架の罪の贖いによって、救われて いるからである。イエス様の救いとは永遠の命と言う恵みの大きさを 覚える者でありたい。 ※誠の永遠の救い主 3節。「私が、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救 い主であるからだ。」 私達の神様が人を永遠に救うことができる、力ある方であるからこそ 言えるのである。 世の宗教家達は何を信じて良いというかもしれませんが、永遠の命を 与えることのできるかたは、この方だけでしょう。「神様以外の救い は死ぬまでであり、神様からの救いは永遠である。」

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