感謝した⽣き⽅

2019年12⽉8⽇ 池袋台湾教会 合同主⽇礼拝 『感謝した⽣き⽅』 聖書:ルカによる福⾳書17章11節̶19節 11 「さて、イエスはエ ルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。 12 ある村に⼊ると、ツァラアトに冒された⼗⼈の⼈がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れ たところに⽴ち、 13 声 を 張 り 上 げ て 、「 イ エ ス 様 、 先 ⽣ 、 私 た ち を あ わ れ ん で く だ さ い 」 と ⾔ っ た 。 14 イ エ ス は こ れ を ⾒ て 彼 ら に ⾔ わ れ た 。「 ⾏ っ て 、 ⾃ 分 の か ら だ を 祭 司 に ⾒ せ な さ い 。」 す ると彼らは⾏く途中できよめられた。 15 そのうちの⼀⼈は、⾃分が癒されたことが分かると、⼤声で神をほめたたえながら引き 返して来て、 16 イエスの⾜もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア⼈であった。 17 す る と 、 イ エ ス は ⾔ わ れ た 。「 ⼗ ⼈ き よ め ら れ た の で は な か っ た か 。 九 ⼈ は ど こ に い る のか。 18 こ の 他 国 ⼈ の ほ か に 、 神 を あ が め る た め に 戻 っ て 来 た 者 は い な か っ た の か 。」 19 「 そ れ か ら イ エ ス は そ の ⼈ に ⾔ わ れ た 。「 ⽴ ち 上 が っ て ⾏ き な さ い 。 あ なたの信仰があ な た を 救 っ た の で す 。」 おはようございます。本来川⼝先⽣がこの場に⽴っているはずでしたが、インフルエン ザにかかってしまったということで、今⽇は私がここに⽴ってみなさんに神様からのメッ セージを語らせていただきたいと思います。ですので、今⽇神様が私たち⼀⼈⼀⼈に何を 語ろうとしているのか、共に⼼を向けていきましょう。 みなさんが最近神様に感謝したことはどのようなことでしょうか。家族、仕事、交わ り、⾃分の課題、⼈によって様々だと思います。中には、すぐには思いつかないという⼈ もいるかもしれません。今⽇はテーマにもあるようにこの上なく神様に感謝をした⼈の⼈ ⽣から共に学びたいと思います。 11節に「サマリアとガリラヤの境を通られた」とあります。サマリアとガリラヤ、どちら もユダヤ⼈の住んでいる地域ですが、ユダヤ⼈とサマリア⼈両者の間には、それまでの歴 史的・信仰的対⽴によって差別や憎しみがありました。イエスがその境を通られて⼊って いった「ある村」というのが今⽇の舞台となっています。 村に⼊ると、ツァラアト(らい病)という⽪膚病に冒された10⼈がイエスを出迎えま す。ツァラアトについてはレビ記の中に詳しい記述がありますが、ツァラアトというのは ⾒ていられないようなひどい⽪膚病で、当時は神に⾒放された者や罪の象徴がツァラアト の原因だと信じられていました。イエスを迎えた10⼈のツァラアト患者は今⽇の箇所後 半で分かるように全員がガリラヤ⼈ではなく、少なくとも1⼈はサマリア⼈でした。 ツァラアトを患っている者は社会から物理的にも⼼理的にも引き離されて⽣きるしか術 がありませんでした。ですから社会から離れて⼈の群れを避けて、「ある村」に⾏き着 き、そこで⺠族を問わず同じ病・傷みを抱える者として共に⽣活をしていたのでしょう。 不思議なことだと思わないでしょうか。⺠族的には絶対に交わろうとしないのに傷みを 共有できるのならその障壁も関係ないわけです。私も中学⽣の時にすごく苦⼿なタイプの ⼈がいました。でも似たような悩みを持っていることをある時に知って、それからは不思 議と少し仲間意識を感じるようになりました。 ⺠族の対⽴はこれに⽐べられないですが、それが関係なくなるほどツァラアトは恐ろし い病であるとも⾔えるのではないでしょうか。彼らは「汚れている者」と社会に認識され ているので、律法によって定められているように遠く離れたところからしかイエスに呼び かけることができなかったのです。 そんな彼らの叫びは、「私たちを憐れんでください。」というものでした。イエスが町々 で⾏った癒しの奇跡などを⽿にして知っていたのだと思います。彼らの「憐れんでくださ い」という悲痛な叫びはようやくイエスに届きました。 他の癒しの業ではイエスは患者に直接触れたり、その場で癒しの宣⾔をしたりする場⾯ がありますが、今回においては「⾏って、⾃分のからだを祭司に⾒せなさい。」と⾔われ ました。なぜかというと、祭司はツァラアトが癒された者に対して「あなたのツァラアト は治っている、清められている」と宣⾔する権利をもっていたからです。つまりイエスは 「あなたが本当にわたし信じるならば祭司のもとに⾏きなさい」と⾔われたわけですね。 私たちもこのように信仰のチャレンジを受けることがあります。頭でわかってるほど簡 単ではないことを誰もが経験してきたのではないでしょうか。また、時には⾃分の抱えて いる問題の深刻さを⾃分ではかり、あまり深刻でないもの、⾃⼒でなんとかなりそうな問 題は神に頼ろうとしない傲慢さをも持っているのでないでしょうか。 ツァラアトに冒された10⼈はイエスの⾔葉に従って、祭司のもとへと向かいました。 そして、全員がきよめられたのです。きよめられるに価する信仰をイエスはその10⼈に ⾒たと⾔うこともできるでしょう。 これでハッピーエンド、ではなく、今⽇注⽬したいのは15節以降の出来事です。 15 そのうちの⼀⼈は、⾃分が癒されたことが分かると、⼤声で神をほめたたえながら引き 返して来て、 16 イエスの⾜もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア⼈であった。 確かにそこにいたツァラアト10⼈は全員が平等に癒されたはずでした。しかし、1⼈ だけがイエス様のもとに引き返してきたのです。更に彼は他国⼈であるサマリア⼈であっ たと記されています。最初に⾔ったように、ユダヤ⼈とサマリヤ⼈は⾮常に仲が悪いので す。10⼈の中には“神の⺠”というアイデンティティを誇りにしていたユダヤ⼈もいたと 思います。しかし、これまでひどく苦しめられたツァラアトが癒されたのを知り、何より もまず、このことを成してくださったイエス様に感謝したいと思ったのは10⼈中たった の1⼈、他国⼈である彼のみでした。それも⼤声で神をほめたたえながら戻り、「イエス の⾜元にひれ伏して」とありますから、この上ない喜びであることがここに表れていま す。 感謝する機会は平等に与えられているのに、その後の反応はこれほどまでに違うのかと 私はショックを覚えました。かと⾔って私⾃⾝も引き返さなかった9⼈を⾮難することは できないわけです。皆さんよりは少し短いですが、これまでの22年間の⼈⽣を振り返っ てみても⼗分に感謝してきたと⾔うことはできません。様々な苦しみや葛藤に直⾯する中 で、たくさん神様に解決を求めてきました。もちろん神様が与えてくださる解決が⼀番必 要だと知っていたので、必死に祈りました。憐れみ深い神様が問題に解決の⽷⼝を与えて くだされば、⼝先では感謝しつつも今思えばそれは⾮常に薄っぺらいもので、また⼀時の 感情によるものでした。喜びではありつつも、その時私の喜びの源となっていたのは、問 題解決の背後におられる神様ではなく、問題がなくなっていった⾃分⾃⾝の⾝軽さでし た。 もしかしたら今⽇この中にはまだ神様を信じていない⽅や誰かに連れられて来た⽅もい るかもしれませんが、ここにいる多くの⽅々は、それぞれの⼈⽣である時にイエス様に出 会い、この⽅をもっと知りたい、この⽅と⼀緒に⽣きていきたいと思ったからこそ今ここ にいるのだと思います。 しかしその歩みを今⼀度振り返る時、私たちは今⽇の箇所における10⼈中の9⼈でし ょうか、あるいはその1⼈でしょうか。“私のための神様”ではなく“神様のための私”であ って、それは強制されたものではなく私たちにゆるされたこの上ない喜びであり祝福で す。この命に歩んでいく時に私たちの⼈⽣は祝福にあふれていきます。 毎⽇が感謝しやすくなるわけではありません。しかし、あらゆる場⾯において神様をほ めたたえる、感謝するという選択ができるようになるのです。“神様のための私”である 時、その事柄において感謝できるかできないかということではなく、それでも感謝をす る、という選択ができるようになるのです。 クリスチャンになると⽇曜に教会に⾏かなきゃいけない、世の中の友達が楽しんでいる あれもこれも、時には我慢しなければいけない、全然⾃由じゃないという声を時々⽿にし ます。私も以前はそう思っていました。しかし、本当のキリスト者の⾃由とは、⾟い時や 頼りたい時に、その問題に⽀配されて解決策もなく苦しみ続けるこの世の中ではなく、そ れでも感謝をするという選択、神に近づくという選択肢があるということではないでしょ うか。 19 「 そ れ か ら イ エ ス は そ の ⼈ に ⾔ わ れ た 。「 ⽴ ち 上 が っ て ⾏ き な さ い 。 あ な た の 信 仰 が あ な た を 救 っ た の で す 。」 1⼈のサマリア⼈は癒されただけなく救いをも賜りました。イエスに出会ってしまった 彼は、⼀⽣この⽅に着いていこうという覚悟があったかもしれませんが、主は「⽴ち上が って⾏きなさい。」と彼を送り出します。 私たち⼀⼈⼀⼈にも家庭や職場や学校、それぞれ遣わされている場所があります。これ から新しいところへ遣わされる⼈もいるかもしれません。それは私たち⼈間には分かりま せん。はっきりと⾔えるのは、クリスチャンとして信仰をもってこの世を⽣きることは簡 単ではないということです。クリスチャンとして真っ当に⽣きるならば必ず試練や迫害が あると聖書には書かれています。 だからこそ私たちは、毎⽇の⽣活の中で、何よりも神様との個⼈的な関係を通して、こ のお⽅が私たちにとっていかに礼拝を捧げ感謝するにふさわしいお⽅であるかを吟味しな ければなりません。この先どのような苦しみにあったとしても、私たちの主に信頼してい きましょう。信仰によって歩みながら、あの時の1⼈のサマリア⼈のように主をほめたた えながら感謝をする⽣き⽅、これこそが神様が私たちに求めておられる⽣き⽅ではないで しょうか。 (祈り)

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