わけへだてのない愛

ルカ10:25-37

10:25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして 言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。 10:26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう 読むか」。

10:27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、 力をつくし、思い つくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』 とあります」。

10:28 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさ い。そうすれば、いのちが得られる」。

10:29 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、 イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。 10:30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに 下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負 わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

10:31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、 この人を見ると、向こう側を通って行った。

10:32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、 彼を見ると向こう側を通って行った。

10:33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りか かり、彼を見て気の毒に思い、

10:34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたい をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、

『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、 帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

10:36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと 思うか」。

10:37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。 そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

この一年半コロナ禍で、 ソーシャルディスタンスが謳われています。 三密を避けることが常識です。

オンラインが導入され 、 会議の移動時間は無くなりました。 しかし、同時に雑談もなくなり、 人との関係は味気なくなっています。

この状態が永遠に続くことはないと思いますが、 まだ続きそうな見通しです。

日々流れるニュースには ネガティブなものが多い、

ス トレス、孤独、不安から不満

情報の良し悪し 超情報化社会と言われ 、 1日の情報量に比例して、 うつ病患も増えている。

オリンピック開催、コロナ感染者増、 私たちの生活に関係するようで、 直接関係しない物も多い

差別、批判、不景気、 今まであった問題が露わになっている 人の、最悪な面と、美しい面が出やすい

正しく神様に仕える事は出来ません。

隣人を愛するとは、 相手を祝福することであって、 干渉しないことではないのです。

あなたの敵を愛せよと聖書は言います。 敵を許すだけではなく、 敵を祝福する必要があります。

そして、敵を祝福するときに、 私たちは憎しみや怒りの束縛から開放されるのです。

先ほど読んだ例えを語る前に、律法学者とのやり取りがありました。 25節で、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

イエス様に律法学者が質問します。 そして、イエスは律法をどう読むのか?と質問します。

27節で彼は答えます。 「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を 愛せよ、また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

彼の答えは立派でした。 彼は聖書をよく知って、十戒を瞬時に纏めました。 彼は、律法を教えることができる知識がありました。

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この状況でどう生きるのか

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私たちに問われている

大切なことは、 私たち自身が希望を持つこと、

神の言葉、神とともに生きる喜びにとどまること そして、それを伝えることです。

不安不満に飲まれてはいけません。 そこからくる影響は大きいのです。 その思いは、家の中に持ち込まれる。

批判、争い、影口に同調してもいけません。

大きな愛で愛されている私たちは、 神と隣人を愛することが大切です。

人を愛することなくして、

律法を要約すると、 この二つの戒めにまとめられるのです。

この二つの戒めを守るなら、 律法の全体を守ることになるのです

それほどまでに、神を愛することと、 隣人を愛することは大切なのです

28で・イエスは彼に言われます。 「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。 そうすれば、いのちが得られる」。と、答えられます。

律法学者は正しい答えを知っていましたが、 知っているだけで隣人あいを理解していなかったのです

そこには神の命が通っていなかったのです。 イエスが彼に言われたことは

「その通り行いなさい」と言うものでした。 ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

この意味はあなたには行動が足りないというのです。

10:29 律法学者が自分の立場を弁護しようと思って、正しさを示そう として、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことで すか」。 とイエス様に質問します。

彼はなかなか賢い男で、イエスの答えが、

あなたには足りないところがあると

言われたことにきずいたのでしょう。

私の隣人とは誰ですか?と言うその意味は、 「お言葉を返すようですが、もう私はあなたに指摘されなくても、 行っていますよ。神に使えていますよ。人にも尊敬されています。」 と、主張しているのです。

そして、イエスは善いサマリヤ人の譬え話を語られます。 ある人がエルサレムからエリコへ下る途中の道で、 強盗に襲われ 、着物を剥ぎ取られ道端に倒れていました。

10:30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに 下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負 わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

10:31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、 この人を見ると、向こう側を通って行った。

祭司がやって来ます。 しかし彼は反対側を通って通り過ぎていってしまいました。

祭司は神様に仕える身でありながら、 傷ついて倒れている人を無視していったのです。

そこへ同じ様にレビ人もやってきます。

10:32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、

彼を見ると向こう側を通って行った。

しかし、同じように彼もまたチラッとは見ましたが、無視していって しまいました。

彼もまた祭司と同じように神殿で祭司の働きを補助する、 神様に仕える人なのです。

なぜ彼らは神様に仕える身でありながら、 傷ついた人を無視してしまったのでしょうか。

無視することもリスクがあるのです。 (証、倒れていた女性)

なぜ彼らは倒れていた人を無視した理由は、

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彼らが神に仕えていたからです。 神のみに仕えていたといえるでしょう。

当時のエルサレムでは神殿で犠牲を献げる時間決まっていました。 彼らは神殿に行く途中で傷ついた人を助ける時間がなかったのです。

もし、血に触れてしまったら汚れてしまい、神殿で奉仕する事が出来 なくります。

また、倒れている相手が、何らかの理由で、汚れている可能性があっ たとしたら、彼らは神殿で神に仕える奉仕ができなくなってしまうの です。

倒れている人を助けるよりも、 神殿で神様に仕える事の方が重要だと考えていたのです。

よって、倒れている人に触る事をせずに無視をするという、 愛の無い行動をとってしまいました。

彼らは律法を知り尽くしていました。 一番重要な愛に元ずいた行動。 神と人に仕える隣人愛を最優先させなかったのです。

※彼らは神に仕える知識は豊富にありましたが、 命に至る愛の行動がありませんでした。 自分が正しいと思っていたのです。

彼らは神に仕えるという正当な理由があります。 しかし、神様に仕える事は重要な事ですが、 隣人を愛し仕える事を無くして、 神様に仕える事は出来ないという イエス様のメッセージがここにあります。

神が私たちに命じていることは、 神を愛することと、 隣人を愛することなのです。

これは二つのことを言っているのではく、 二つでひとつの戒めなのです。

※人を愛するとは、本当に難しいこと。 甘やかしではない。

助け戒め、支え、忍耐があり、 真実な愛に生きることは、 葛藤とその中で 砕かれる。とにかく、 大変なあゆみだと思います。

※教職者へ

祭司とレビ人の行動は、

神のみに仕え、隣人愛を忘れ 、 いつのまにか自己中心的な信仰になってしまっていた。

職務に忠実。

これは感心なこと。

しかし、その中で、神が喜ばれることは何かと、 絶えず問い続ける必要があるのです。

神に仕えているからといって、 隣人に対して愛の欠ける行動は、 み心ではありません。

※自分中心の信仰になっていることは、 なかなか気づきにくいものです。

しかし、いくつかのサインがあります。

もし私たちが、こうならなければ嫌だ! これが正当な意見だ! 自分の意見をきくべきだ! という思いが沸き、

苛立ち始めるならば、 自分中心な信仰に陥っているでしょう。

神様は私たちに主の愛に留まり、 命に溢れ 、神と隣人を愛する者に なって欲しいのです。

神様に喜ばれる信仰生活は、 隣人との愛の交わりが必要です。 神の愛に留まり、愛に生かされなければなりません。

10:33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りか かり、彼を見て気の毒に思い、

10:34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたい をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

サマリヤ人が来ます。 サマリヤ人はユダヤ人から見下されていた人々です、 話している相手がユダヤ人なのでそう考えても良いでしょう。

いわば目の前には敵対するユダヤ人が倒れているのです。 相手が回復した時に感謝をするとは限らないのです。 もしかすると、迫害してくるかもしれません。

ただの敵ではなくこちらのことを下に見て裁く相手なのです。 しかし、サマリヤ人は倒れている人を助けるのです。

35節でこのサマリヤ人は「帰りに代金を払います」 と言っています。彼は暇だから助けたのではありません。

行く先で彼の重要な仕事があったと考えられます。

彼も祭司やレビ人と同じで、 やるべき事があったにも関わらずに倒れていた人を助けました。

傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをする。 この手当は費用もかかっています。 犠牲もそこにはあるのです。 隣人愛のためには犠牲をいとうな、ということです。

※サマリア人の行動を通して、 神様の喜ばれる隣人愛の姿勢がわかります。 神様に仕えるとは時として、犠牲を払ってでも、 隣人を愛する行動が必要なのです。

敵対する相手も隣人なのです。 意見が合わない人、反対してくる人、 見下してくる人、助けても反撃する人、 すべてが神様が私たちに与えてくださっている隣人です。

神もまた私たちに使えていてくださる

77宣教師証

『こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わない なら、それはその人の罪です。』ヤコブ4:17 第二テモテ2:21従うことによって聖められる

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私達はいつエルサレムからエリコに下る道を通るか分かりません。

いつ燐人を助けるべき状況に置かれるか分かりませんが、

善きサマリヤ人のように人に、 人に仕える愛を実行するものでありたいと思います。


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