み言葉を宣べ伝える
第2テモテ4:1-8結論:時が良くてもわるくても、恐れずにみ言葉を宣べ伝えるーみくにを与えられている者として福音に生きる私たちは生きている神を知り、神からの良き知らせ福音を伝えられている者です。福音に生きる信仰と、信仰を守り通す歩、また、福音を宣べ伝える勇気が必要です。パウロは1節で「その御国を思って」と言っています。6節を見ると「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました」と語っています。これは、血が注がれると言う意味で、彼は間もなく皇帝ネロによって、死刑に処せらることを感じていました。実はこの章は、聖書に記録されているパウロの言葉の中で、最後のものと言われています。※パウロは今、自分が天の御国の中に入ろうとしていることを感じていました。パウロは福音を伝えたために何度も投獄されました。大胆に神の救い福音を語る時に、迫害が起こったのです。※迫害の後にリバイバルが起こる「…私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Ⅱコリント11:23~27)※パウロが入獄したのはピリピ、エルサレム、カイザリヤ、ローマの四か所です。その生涯の終わりの4年間は完全に、自由な行動がとれない状態(自宅軟禁)にありました。この期間に「獄中書簡」(エペソ、ピリピ、コロサイ書)が書かれました。また、「牧会書簡」(テモテ、テトス、ピレモン)も同様です。自由に福音を語ることができなくなったパウロは、ローマで軟禁状態にありながら、神の真理を手紙の形で書き残すことになりました。囚人になったことは神のご計画であったのではないでしょうか。ですので、この手紙はこの世に残って福音を伝える役目のあるテモテに遺言状のような手紙を書いたのです。これは、テモテだけに語られているのではなく、パウロの最期の遺言状として私たちにも語られている言葉なのです。※パウロはキリストに出会ってから、1:救いの喜びに溢れ、2:迫害、3:投獄、4:そして処刑、その1つ1つを通して神の栄光を現し神の身元に導かれて行きました。※人の目からは幸福な人生ではなかったかもしれませんが、何よりも主とともにいたので、極めて喜びに溢れる使徒となったのです。※パウロの遺言状として私たちに与えられていること思いながら、もう一度読んで見ましょう。※みなさんは天国に行く確信がありますか。多くの人が当たり前に思っていることは、1.明日も同じように生きられると思うことと、2.死ぬことも当座のことだと思っている事です。※私たちは明日生きているという保証はどこにもありません。ただ今日、元気だったから明日も大丈夫と思っているのです。また、死ぬことを同じように当然のこととして受け入れていますが、罪が世界に入る前は死はなかったのです。死ぬために生まれることは本来不自然で、神は私たちに命を与え活かすためにお造りになられたのです。※天国に行く確信がないのであれば理由はなんですか。もし、キリストの十字架を受け入れず神を無視し罪とサタンに所有されているならば、「キリストは私が道であり真理であり命なのです、私を通してでなければ誰も天のみ国に行くことは出来ませんと言っていますので」、ヨハネ14:6天国に入ることはできないでしょう。※しかし、もしあなたが神を信じていて神とともに生きたいと願っているのであれば、あなたは代価を払って買い取られた者であり、天のみくににはあなたの住まいがあるのです。ヨハネ14:1-2注意:私たちが完璧な信仰を持てるかどうかではなく、主が救いを完成させてくださっているのです。※獄中にいるパウロは「私はキリストに囚われている!キリストの囚人だ。」と語っています。確かにローマ帝国によって監禁されていましたが、パウロはこれは主がされたことであって、こうなったのも全て神の導きと確信していました。ですので、彼は私の生涯はキリストに捕らえられている!と語っているのです。そこには不平不満はなく、喜びに満たされているパウロの姿が想像できます。※皆さんは今、何に囚われていますか?パウロのようにキリストだけに囚われているでしょうか。恐れや、不安、患いに囚われてはいないでしょうか。将来の不安や心の願望に囚われていないでしょうか。神以外のものに囚われて、煩わされていないでしょうか。ここで覚えておきたいことは、私たちの心に満ちている思いが行動や言動に現れてくると言うことです。※私たちは囚われているものから多くの影響を受けるのです。もし、私たちが恐れや不安に囚われているのならば、心に余裕がなくなりイライラとしてきます。時として人に八つ当たりをしてしまったり、不幸に囚われ始めるのです。これは非常にもったいないことで、偉大な神を信じているのにもかかわらず、心には余裕がなくひねくれた信仰生活を送り続けることになります。試練や煩い、怒り、孤独、自己憐憫に囚われないでください!※私たちはパウロが信じている同じ神を信じているのです。アブラハムやモーセ、ダニエルやダビデと全く同じ神を信じているのです。彼ら全ては神に囚われていたために、多くの影響を神から受けました。そして、人にはできないような神の栄光が現される信仰の歩みをすることができたのです。※祈りとみ言葉で解放される。すでに与えられているみ言葉を大切にする※みなさんみ言葉に囚われてください。獄中にいたパウロを聖書からみてください。彼は死をまったく恐れていません。むしろ、みくにへの確信と義の栄冠が与えられることを確信しています。2テモテ 7-8もし、彼がキリストに囚われていなかったとしたら、獄中でこのような手紙を書くことはできなかったでしょう。彼は不安や、なぜこうなってしまったのかと不満に思ったり怒ったりしたのではないでしょうか。※パウロは主に囚われていましたので、正しい審判者である主が私の歩みを評価し、義の栄冠が用意されていると確信しています。第二テモテ4:2みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。そして、この世を離れる前にパウロが一番伝えたかったことは、神の言葉を伝えなさいと言うことでした。「時がよくても悪くても」とあります。私たちは時がよくても悪くても伝えるのです。※パウロはあらゆる時に福音を伝えてくださいと懇願しているのです。※余裕があるタイミングでみことばを伝えるのではありません。実際、良いタイミングばかりを狙っていたら行動できなくなるかもしれません。都合の良いタイミングばかりを狙うならば、いずれ良い機会を逃します。そして、行動が受け身になりすぎます。※注意:疲れているから、余裕がなかったら、もっと整っているならできます…と結局は何もしないままが過ぎてしまいます。※そうゆう人は結局、良い状況が整ったとしても行動はありません。あらゆる場合にみ言葉を伝え、みことばに生きる必要があるのです。そして、それだけではなくパウロは続けて「寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」書き送っています。※クリスチャンの集まりはただの仲良しグループではありません。私たちは教わる必要があり、責め、責められる時もあり、戒め、戒められる時もあるのです。※しっかりと寛容を尽くし、指導をする必要もありますし、指導を受ける必要があるのです。※注意 ただ塩の塊を食べるような過酷な世界でもありません。寛容を持って教え、また、教えられるのです。※第二テモテ4:11「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の勤めのために役に立つからです。」と語られているマルコはかつては役に立たない者でした。※彼はかつて宣教旅行の途中で一人だけ帰ったことがありました。おそらく彼にとって想像以上にその旅が辛かったのかと思います。使徒15:38その結果、パウロが再び宣教旅行に行こうとした時に、パウロはマルコを宣教旅行に連れて行かなかないと言い、マルコの従兄弟のバルナバは彼をつれて行くと言い、衝突が起こり、互いに別行動を取ることになってしまったのです。この一時的な分裂は誰かの間違いや、パウロが一人だけ厳しかったのではなく、マルコにとっては戒めとなり彼はさらに成長することができたと言えます。結果パウロはシリヤとキリキヤを通り北上し。バルナバはマルコを連れてキプロスへ渡りました。(彼らの出身地なのでマルコにとっては難易度は低く、何かあっても被害は少ない)寛容と戒めは絶えず必要なことです。また、私たちがマルコのような者であっても変えられる希望があるのです。※大きな失敗をしたものだとしても。人に迷惑をかけてしまったとしても、主に立ち返るならば成長するのです。※パウロは今後、この世界は健全な教えを聴く人々が少なくなると感じていました。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうともせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いを持って、次々と教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理絡み位を背け、空想話にそれて行くような時代になるからです。」テモテ第24:3−4聞きたいことや、耳障りの良いことばかり聞く時代となるとパウロは言っています。愛されています!可能性がああります!ヴィジョンを持ってください!という都合の良い言葉だけを信じてはいけません。神の真理でなければそれらのものは偽りなのです。耳障りの良い言葉ばかりを受け入れる時に魂は弱ってしまいます。真理に耳を傾けて行動する時に健全な魂が育ちます。み言葉に歩むことが私たちの食物なのです。ヨハネ4:34絶えず祈りみ言葉に行かされましょう。※み言葉に、御心に生きる