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ほんとうの幸せ

マタイ5:1~12「ほんとうの幸せ」  

 おはようございます。1週間前は本当に殺人的な暑さが続きました。体調を崩された方もおられるかもしれません。これからの1週間はそれほどでもない予報ですが、どうぞ皆さんお体に気を付けてお過ごしください。 

 

【誰もが幸せを願う】

 世界中の誰もが、幸せになりたいと思っています。時代や国が違えば「幸せのかたち」は違うでしょうが、老若男女、みんな幸せを求めています。皆さんはどんな時に、どんなものに幸せを感じますか。

 

 今日のみことばは「山上の垂訓(説教)」として有名な箇所の一部です。

 主イエスはある時、山に登られました。ガリラヤ湖の西側には、あちこちになだらかな丘があり、イエス様は湖畔のいろいろなところで何度も何度も弟子たちや群衆に話をされたと思われます。

 

 3節に始まるイエス様のことばは、原文では「幸せだ」と訳されるギリシャ語のマカリオイで始まっています。話の始めに「幸せだ!」と言われたら、何が??と聞きたくなるのではないでしょうか。

 

 旧約聖書にも似たような言い回しがされている箇所があります。

 

詩篇2:12「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」 

 

詩篇32:1-2「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。

      幸いなことよ 主が 咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」

 これは神様から祝福されている状態を表わします。つまりこの幸せは、英語ではHappyではなく、Blessedと訳されていることばです。自分の思い通りに事が運んで嬉しい!気分が良い!ということではなく、これらの人々は、神様からの祝福を受けるということです。

 

 

 ここに本当の幸せがあるのです。私たちは、自分の願いが叶い、計画が実現したら幸せだと考えます。「志望校に入れたら幸せ」「良い仕事に就けたら幸せ」「かっこいい人、美しい人とお付き合いできたら、結婚できたら幸せ」「お金をたくさん稼げたら幸せ」「ほしいものを手に入れたら幸せ」・・・・という風に。

 

 それはつまり、これら(志望校、仕事、人、お金、もの・・・)が自分に幸せを運んでくれると考えているのです。けれども、本当にそうでしょうか。その考えが正しいなら、なぜ、志望校に入った大学生が大学を中退するのでしょう?また、なぜ念願の会社に務めた人が転職サービスを利用するのでしょう?なぜ、みんながうらやむ夫婦が離婚をし、お金をいっぱい稼いでいる人が自殺をするのでしょう?

 

 私たちの幸せはそのような「もの」に依るのではなく、神様との関係にかかっているのです。ほしいものを手に入れても、私たちの内に湧いた喜びはいずれ消えてしまいます。創り主である神様を離れては、ほんとうの幸せを手に入れることはできません。神様だけが、私たちのすべてをご存じで、私たちにほんとうの喜びと満足を与えることのできるお方なのです。だから、私たちは神様との正しい関係を持ち、神様の祝福をいただいて幸せを味わっていきましょう。

【心の貧しい者】

 さて、イエス様の幸せの話は、びっくりする人を取り上げます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」これはどう考えてもこの世の価値観とはかけ離れている気がします。普通「心が貧しい」=心が狭い、度量が小さい、愛がないということを指しているでしょう。なぜそんな人が幸いなのでしょうか。

 

 旧約聖書の時代、多くの人々が、権力者の圧政に苦しんでいました。彼らは神様に叫びます。「主よ 耳を傾けて 私に答えてください。私は苦しみ 貧しいのです。」(詩篇86:1)「主よ 立ち上がってください。神よ 御手を上げてください。どうか 貧しい者を忘れないでください。」(詩篇10:12)etc. このように、高ぶる者と対照的に「貧しい者」は神様により頼む者の代名詞となりました。

 

 心の貧しい人は、自分の無力さ、むなしさを知っている人、自分の持っているものに頼らない人です。自分の才能、家柄、学歴、財産・・・といったことを人生の拠り所としません。それが究極的には当てにならないことを知っているからです。

 誤解してはいけません。「心の貧しさ」は自分のことを卑下したり、弱い人間になるということではありません。パウロは善を行うことができない自分のみじめさを嘆き、自分のことを「罪人のかしら」だと告白しました。今までの自分の経歴(学歴や家柄や社会的地位)は、キリストを知ることと比べたらちりあくただと言い切りました。それでいて彼は、とてもとても勇敢な人でした。見知らぬ土地に行って大胆に福音を語りましたし、石を投げられても鞭打たれてもひるむことなく、死を恐れず語りました。

 

 そのように、神様の前に立ち、自分の貧しさ、無力さを悟る時、私たちは強く、大胆になります。すべてのものを創り、治めておられる神様に愛され、赦され、受け入れられているのですから、恐れません。それこそ「天の御国」神様の国、神様の支配を体験することです。心砕かれ、神により頼む人、神がともにいてくださる人こそ、ほんとうに幸せなのです。

【悲しむ者】

 次を見てみましょう。「悲しむ者は幸いです。」皆さんは悲しいことがあったとき、どのように反応するでしょうか。大小さまざまな悲しみが私たちの日常にはありますが、見ないようにしたり、一人で部屋にこもって涙したり、何かをして紛らわそうとしたりするでしょうか。悲しみへの反応の多くはネガティブなイメージで受けとめられ、まるで悲しみはあってはらないものとしてタブー視されているかのようです。

 

 けれどもイエス様は「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」とおっしゃいました。イエス様ご自身、またパウロも、悲しんだ記録があります。(ヨハネ11:35、ルカ19:42)(ローマ7:24)人の死の現実に涙を流され、神に背いて滅びる人たちのために悲しまれた主イエス様と、自分自身の罪の現実に悲しんだパウロとでは、悲しみの種類はちょっと違いますが、聖書は涙や悲しみを隠さずに書きあらわしています。

 私たちは覚えていたいです。自分の罪を悲しむ人は、神様からの慰めを経験するということを。私たちは、自分の罪を負って十字架で死なれたイエス様の愛に触れます。自分の罪深さに打ちのめされるとき、「あなたの罪は赦された」という主の声を聞くのです。罪に汚れたこの世界で経験する私たちの悲しみも、死の悲しみも含め、すべての悲しみを神様は慰めてくださるのです。

 

 黙示録21:3-4「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 

 これは今後起こることです。この神様の約束が実現する時――それはこの世の終わりの時ですが――私たちは大いなる慰めを体験できるということです。

 

【柔和な者】

 3つ目に幸せな人は「柔和な者」と言われています。「柔和」というと、優しく穏やかな、でもどこか弱いようなイメージが浮かびます。

 

 そこで、皆さんにクイズです。聖書に出てくる人物で「地の上のだれにもまさって柔和であった」と言われている人がいます。誰だと思いますか?  

 

 Ans.モーセです!(民数記12:3)

 彼は、奴隷だったイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した勇敢なリーダーです。不屈の精神と判断力、説得する力も秀でていたでしょう。力強いイメージが湧いてくるのに、そんな彼が、誰よりも柔和と言えるのは、この民数記12章のエピソードから想像できます。

 彼は、自分のことをねたんで非難した姉のミリアムに、怒ったり弁解したりしませんでした。神様の怒りで彼女が重い皮膚病にかかった時(12:10)にも「ざまあみろ」と言うわけではなく「神よ、どうか彼女を癒してください!」と叫び、祈りました。それは彼が「柔和」な人だからこそと言えるでしょう。

 自分の力に任せて他の人を押しのけていくことを、神様は喜ばれません。むしろ、貪欲や復讐心から解放され、人にゆずることのできる人にこそ、神様は、また人も、多くのものを任せてくださいます。こういった人は、わずかなものでも満足し、幸せを味わいます。そういう人たちこそ「地を受け継ぐ」者、地を支配する者とされるのです。

 私たちも神様に赦されている恵み、自らの罪を悲しむ者を受け入れてくださる神様の憐れみを体験する時、神様にすべてをゆだねるようになります。その結果、自分が自分が、あるいはもっともっと!という自己主張や貪欲さから解放されて柔和な者となるのです。

 

【義に飢え渇く者】

 4つ目に挙げられているのは「義に飢え渇く者」。飽食日本、川なども多く、水に恵まれている日本で過ごしている私たちには、「飢え」とか「渇き」と言われてもあまりピンとこないというのが正直なところです。戦争を経験した方々はあまり思い出したくない過去として心に残っているかもしれません。

 

 「義」とは何でしょう?神様と正しい関係にあることです。私たちは周りの人と

 

正しい関係にある時、幸せを感じやすいと思います。もし、友達と仲が悪かったら、学校には行きたくありません。職場の人と仕事のことで意見が割れたままだったら、朝の通勤は気が重くなるでしょう。夫婦喧嘩した日は食事の時間が気まずくなるかもしれません。そのように、人と正しい関係にあることは幸せの条件と言えます。

 まして、私たちを生かし、支え、導いてくださる神様との関係が壊れていたら、幸せになれるはずはありません。

 

 そのように何か壊れている時、痛みがある時、私たちは苦しくなって、ひたすら痛みがなくなることを願います。けれども医者がひたすら痛み止めの注射ばかりしていたらどうなるでしょうか。原因が取り除かれず、対症療法をするだけでは解決になりません。原因を特定して、そこを治療しなければならないのです。

 

 でも多くの人はこう言います。「気晴らしに遊びに行こう」「仕事に打ち込めば、気がまぎれる」「お酒を飲んで忘れよう」・・・でも、そうやって忘れることができるのは一時だけ。問題は少しも解決しないということが多いのです。

 

 私たちの霊的な病――神様との正しい関係を崩し、神様のみこころからそれてしまっている現実――から、目をそらしてはいけません。正直に自分を見つめるとき、私たちは、神様も人も無視して、自己中心に生きようとする罪深い姿を見ることになります。それはとても苦しいことです。けれど、その罪を解決し、痛みを癒すことのできる方に「罪人の私をあわれんでください!」と叫ぶことができるなら、幸せなのです。

 

 そのようにして、私たちの最も根本的な問題である罪の解決を願うこと、神様の前に正しくありたいと切に願うこと、それが義に飢え渇くことなのではないでしょうか。

 

 そういう人は「満ち足りる」と言われています。飢え、渇いている人が、満ち足りるというのはとてもシンプルで分かりやすい表現です。神様は、神様との正しい関係に歩もうと求める人を満たしてくださいます。「まだ満たされていない」というでしょうか。この神様のお約束は今も、そしてこれからも実現し、最終的には御国に行くときに究極的に成し遂げられ、完成を見るのです。

 

 主イエス様が「~~~の人は神様に祝福されています!」と教えてくださった前半部分を今日は見ました。地上の価値観とは異なるイエス様のおことばをしっかり胸に刻みましょう。流されやすい私たちです。まずは自分を神様との正しい関係に置いているか点検して、ほんとうの幸せを手に入れていきましょう。

 

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