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神との交わり

神との交わり

💫私たちは日々、神と交わり神を知る必要があります。

主の愛に留まり続け、成長を与えられ、神に喜ばれる有益に歩むことが必要です。

私たち一人一人が神と共に親密に生きることを求めていきましょう。

信仰を持って生きるものでありたいと思うのです。

奉仕することも、学ことも大切だが、神を知り、信じ、期待して生きる必要があります。

もし、私たちが神を知っていても、神に頼らずにこの世の知恵や力にたよるなら、神を知りつつも無神論者と同じ生き方になってしまいます。

💫私たちは成長することを願い、そのために、多くのことを学び、知識を得、経験を積もうとしますが、すべてのものは主から与えられてのみ、

有益なものとなるのです。

💫日々、神と共にいる、主に満たされ続けることが、私たちに必要なことなのです。

詩編46:10

※様々な時に私たちは聖書を読み、祈り、神と交わることができますが、聖書の様々な箇所で朝に神との交わりを持つ事の大切さ知ることができます。

キリストも朝早く起き、静かな場所に行き祈りの時を持っています。

また、詩篇では朝にあなたの恵みを聞かせてくださいと謳われています。

創世記3:8では涼しい時間帯に神はアダムとエバの所に来られます。

1日の一番涼しい時間帯は朝の6時頃と言われています。

ですので、1日の始まりに神との交わりを持つことは私たちにとって有益であり、聖書を見る時に神が奨励している時間たと言えます。

目には見えませんが私たちが祈る時に神もそこおられるのです。

(第一コリント6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。)

神との交わりは私たちに大きな祝福を与えます。神によって導かれ、あらゆる問題を打ち砕き乗り越えさせてくださいます。

これは義務でも強制でもありませんが神が私たちに神との交わりを求めていることなのです。

sog1:15 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。

なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。

驚くことに全知全能なる主は私たちを心の底から慕い求めているのです。

私たちがどれほどの者であって偉大な方が慕ってくださるのでしょうか。

しかし、様々な聖書を見る時に神が私たちと共に親密に生きることを願われていることがわかります。

大切なことは日々、神との親密な交わりを持つことなのです。

デボーションは神との交わりです。霊的に神と交わり、神を知る時と言えます。

日々、神は私たちに目を留め、慕い求めてくださっている。私たちには全てのことを止めて、神のみに心を注ぐ時間が必要であります。

💫神と交わることが二の次、三の次となってしまってはいけません、様々な責任や、

やるべきことが与えられますが、神の助けなしには私たちは何一つできないのです。

💫私たちは神に頼り続ける大切さを覚え続ける必要があります。私たちは神を助けたり、また助けられたりする立場ではないのです。

mat4:4★イエスは答えて言われた。

『人はパンだけで生きるのではなく、

神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。

聖書は私たちは食物だけでは生きていくことができないと言っています。

霊的な糧を受けることにより生きると言っています。

私たちはただ体のうちの生命活動が滞りなく行われ、生きている、と言えるのではなく。

神からの命に満たされることにより、神と共に生きる状態が生きていると言うのです。

私たちはどれだけ命の糧であるみことばを日々受けているでしょうか。

また、どれだけの時間を費やしているでしょうか。

💫日々の糧をなくして私たちは生きることができません。

食事は人に代わってもらうことはできない、食いだめもできないのです。

生命の糧も同じように人に変わって取ってもらうことはできないのです。

命の糧を一人ひとりが神から直接受ける必要があります。

栄養に、神に満たされ続けなければ、クリスチャンであっても弱り果ててしまいます。

逆に困難や重荷を背負い続けていたとしても、デボーションによって神に満たされつづけるならば力(命に)溢れ生きることができるのです。

同じ神を信じているクリスチャンであっても、

一人ひとりの信仰を状態は違います。

ある者は力に溢れある者は力弱い時があります。

また、ある者は喜びで満たされ、ある者は不満で満たされています。

これらの違いは神との交わり、

み言葉にその心が根ざしているのかによって違いがでるのです。

2 聞く

日々、神から聞く必要がある。

💫「・・・信仰は聞く事から始まり、聞く事は、

キリストについてのみ言葉によるのです。」(ローマ10:17) (申命記8:3)

信仰は聞くことから始まると聖書は言っています。

神に聞くことがなければ神に喜ばれる信仰の歩みはできません。

自分の良いと思うことが神にとって良いこととは限りません。

私たちは神が望んでおられることに聞き従う必要があります。

💫神からの語りかけは不思議です。

直接心に響く時や、人を通して語られる時や、

環境を通して導かれる事などありますが、

すべてはみことばの裏付けがあるのです。

しっかりとみ言葉によって、御心の確認を取るものでありたいと思います。

そして、私たちはデボーションによって、神から直接聞くことができるのです。

これは大きな恵みと言えます。

この親しい交わりの恵みはキリストの十字架によって与えれているのです。

キリストは十字架上で完了した。と言われました。

これは救いの完成であり、罪を悔い改め、十字架の赦しの恵みに預かるものは、

罪によって断絶状態であった神との関係が、回復したのです。

キリストが十字架で死なれた時、聖所と至聖所を仕切っていた幕が裂けたことは

私たちの罪は、キリストの血によって清められ、罪の隔ての壁を打ち壊したということを象徴しています。

この恵みは、偉大なものといえます。

十字架以前の神と人との関係はどうだったでしょうか、

愛をもって導いてくださっていましたが、人間が神に不用意に近ずくことができませんでした。

ウザは神の箱にふれ、神の聖さにうたれてしまいました。

1chr13:7 そこで彼らはアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せた。ウザとアフヨがその車を御していた。

1chr13:8 ダビデと全イスラエルは、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り喜び踊った。

1chr13:9 こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。

1chr13:10 すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱に伸べたからである。彼はその場で神の前に死んだ。

ウザは契約の箱が倒れかかった時にそれを支えようとして、

箱に触れた時に、神のきよさに打たれしにました。

出エジプト記20章では民が神の近くにいく時に非常に恐れを覚えます。

神が作られた境を押し破ってまで、民は神に近づこうとして、山に登りましたが、

exd19:21 主はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。

exd19:22 主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。《

exd19:23 モーセは主に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられたからです。《

exd19:24 主は彼に仰せられた。「降りて行け。そしてあなたはアロンといっしょに登れ。祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。《

exd19:25 そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた。

民は神に臨在に触れ、

20章では恐れに満たされ近くに行くことができないのです。

exd20:18 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。

exd20:19 彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」

exd20:20 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」

あげくの果てには、あれだけ神の近くに強行に行こうとしていたのにも関わらず、

モーセだけに神と関わる事を頼むのです。

これは罪をや汚れを持つ者が、完全に清い神に近づく時に起こる恐れと言えます。

神は完全に聖い方ですので、神に近づく時に私たちの汚れが示され、

恐れに変わってしまうのではないかと思います。

しかし、十字架の贖いによって私たちの罪が赦され、聖められ、神との関係が回復したのです。

罪によって断絶されていた私たちは恐れることなく、平安をもって神に近づくことができるようになりました。

そして、聖霊が一人ひとりの内にとどまるようになったのです。

💫キリスト者の標準:3祈り

祈りを持って始める、

これは祈りによって私たちの霊的な目が開かれる。

祈りの効果を体験するべき、

熱心に祈り続ける時にみ言葉を悟ることができます。

与えられたみことばを悟り、それに生きるには私たちは祈り神の助けが必要なのです。

デボーションをしていると、すでに知っているみ言葉であっても新鮮に感じることがあります。また、もやもやしていた心に、新しい方向性や、今まで悩んでいたことを違う角度から見る、視点が与えられることもあります。これは、神がみ言葉を通して語ってくださっていると言えます。

しかし,一方で、み言葉を読んでもピンとこない時もあります。たとえ心にピンとこなかったとしても、デボーションをする価値は充分にありますが、

私たちがしっかりと祈った後には、み言葉がこころに響きやすくなるのです。

信仰生活はシンプルです。

祈り、み言葉に示され、従う、

これの繰り返しだと感じます。

これは神と交わりを通して、神を信頼することを繰り返し学必要があると感じます。

1jhn2:5 しかし、みことばを守っている者なら、

その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。

それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

神のうちにいるか、いないかの違いは、

み言葉に従っているか否かである、

み言葉を心にとどめることによって、

祈りが答えられることにもつながる

jhn15:7 あなたがたがわたしにとどまり、

わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、

何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。

そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

💫キリストとの親密な交わり:戦いの中に置かれている

私たちは信仰の戦いに中に置かれている、

私達は信仰の戦いを戦い抜くために、私たちは戦いの中を生きており、

力と導きを受けなければ生き抜く事はできません。

戦いは従うこと。

ヤコブ4:6-8

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。

ですから、こう言われています。神は高ぶるものを退け、へりくだるものに恵みをお授けになる。ですから神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださいます。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、

ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、

歩き回っています。」

(Iペテロ5:8) (Iペテロ5:6-10)

私たちは日々、信仰を失わせようと試みる悪魔の攻撃を受けています。

神に近づくときに、全能なる神は私たちの所に来てくださるのです。

第二歴代志15:15

ただ一筋に主を喜び慕い求めていきましょう。神がご自身を示してくださいます。

神様と共に生きる事が出来るように整えられる必要がある。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、

教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。そ

れは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい

十分に整えられた者となるためです。」(IIテモテ3:16-17)

もし、トッププロが無料でレッスンをしてくれるとしたら、

どれだけ嬉しいでしょうか、

み言葉を開き、神と交わる時に、

私たちには、信仰の創始者であり、

完成者であるキリストが、

私たちに信仰生活の極意を教えてくださるのです、

私たち一人ひとりが直接主から教えられる者でありたいと思います。

※神との交わりがおろそかになる時に、

心に中に愛が薄れ、

余裕がなくなり、

信仰生活が義務化し、

奉仕が義務化し、

責任の重みが増し、

疲れを覚え始めます。

はじめのうちは何かうまく行かない、

ぱっとしないような気持ちになるかもしれません。

日々私たちがみ言葉に導かれていなければ、

信仰生活の方向ええ性をうしない、

力をうしない最終的には信仰を失ってしまうかもしれません。

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