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安息日の祝福

マタイ12:1−14 「安息日の祝福」

結論:安息日に主を礼拝し、神と共に生きることを再確認し喜びと感謝に満たされよう。 主は私たちの所に来てくださり共に生きてくださるのです。

ユダヤ人は、金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日とし、週に1日全ての仕事を休み、神を礼拝する時を持っています。それは創世記の天地創造の7日目に神が全ての創造の技を休み、聖なるものとされた所から来ています。正式には十戒が与えられた時に定められています。出エジプト20:8〜11安息日は私たちクリスチャンにとっても大切なことと言えます。

ただ、私たちは日曜日を礼拝の日としています。なぜなら、それはキリストが処刑され、復活された日が安息日が明けた朝早く(日曜日の朝)だったからです。

ですので、私たちは週の初めに主が死から復活して今も生きておられることも祝うことができます。 また、私たちは主の創造のみわざと復活を覚えることは少なくとも週に一度は必要と言えます。

初めに神が天と地を造られたとあるように、私たちは天地創造をなさる偉大な方を信じていることを覚えなければなりません。偶然にできたこの自然界に偶然に生まれたのではなく、また、私たちは生きているのではなく、生かされていることを覚え絶えず神に感謝をする必要があるのです。

でなければ現代社会に生きている私たちはすぐに神を畏れ敬うことを忘れてしまいます。 人間が我が物顔でなんでも知っているようにこの地上で生きていますが、を知っている感覚を与えやすい物だと思いますが、どのようにしてこの世界ができたのか、また、どのようにして人間が存在しているのかを、現代科学では全て説として語ることはできますが、証明することはできないのです。

そして私たちが覚えるべきは、この安息日は主が私たちのために定められたと言うことです。私たちが必要と感じたから守り行っているのではなく、主が聖とされた日なので私たちはその事を覚え礼拝するのです。

当時のパリサイ人たちはとても優秀な人たちでしたが、安息日における大切な要素を忘れていました。何故この日が神から与えられているのかと言う、本質を見失っていたのです。

今日の聖書箇所であった論争の理由はいくつかあると思いますが、一つは安息日を守ろうとするあまりに規則を造りすぎたということです。簡単にいうと「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」という聖書ではない人間の決まりごとが増やしてしまったことにあります。

結果、どのようなことになってしまったのかというと本来、主を喜び楽しむはずの安息日が、人間が作った規則と戒めによって「仕事をしてはならない、〜してはならない、良いことさえも行なってならない」というふうに決まりごとを守る日になてしまっていました。

これでは本来、神が私たちに与えようとしていた安息という要素は全くなく、むしろ規則を守らなければ裁かれてしまう重荷の日となっていたのです。

マタイ11:28-30を読むとわかるように御心からかけ離れたものとなってしまいました。

一番残念なことは人間が定めた決まりごとによって裁き合いが生じている点です。決まりごとを守れない人には「あの人はダメな人だ」というように人を排除する傾向にあり、一番大切しなければならない、愛と哀れみの心が失われていたのです。

確かに罪や犯罪は容認されるものではありませんし、なんでも愛と哀れみによって放置して良いことばかりではありません。私たちには改善すべき点もあり、罪は裁かれます。排除すべきは罪であって人ではないのです。

当時のパリサイ派の価値観を考えると無理もないかもしれませんが、(口伝律法をモーセ五書と同じレベルで考えていた)しかし、み言葉以外の規則を多く作ることは神を喜び楽しむことから私たちを遠ざけ、隣人を愛するよりも、守ることが目的となり、裁き合いの原因になってしまいます。

私たちも気をつけなければいけない事は、自分の価値観が正しいと思い人を裁くという事です。私たちは育った環境や学んだ神学によって様々な価値観をもっています。それらの物は悪いものではありませんが、主によって一致することが大切なのです。

※頭はキリストであり、私たちは各器官です。主は葡萄の木であり、私たちは枝なのです。

案の定、今日、読んだ箇所からわかるようにパリサイ人は弟子たちが安息日に穂を摘んで食べたということに対しての論争を起こしています。

実際、穂を摘んで食べることはレビ記19:9−10を見るとわかるように貧しい人々に与えれた神からの配慮であったにも関わらず、労働とみなし穂を摘んで食べてはなないという、愛と哀れみの本質を極めて見失った裁きに変わってしまいました。

3-4節では、宮の聖所には輪型の12個のパンが供えられています。それはイスラエルの12部族を表わしています。これは7日ごとに取り替えるのですが、宮から取り除かれたパンは最も聖なるものと言われ、アロンとその子ら、つまり祭司が食べなければいけません。(レビ24:5-9)。

しかし、ダビデはサウルの手から逃げていた時、空腹になり聖別されたパンを食べました。 その時と同じように、弟子たちも空腹であったと、とイエスは弁護されています。

5節:安息日を汚しても咎を免れるー この意味は祭司が安息日に働いていても咎とはならないと言われています。なぜなら彼らは安息日に、普段の日より多く奉仕をしていたと推測されます。(神に仕える仕事)

6節ーイエスは、ご自分のことを「宮より大きなもの」と言われています。これはどういうことかと言うと、祭司が安息日に働いているのだから、ましてや主ご自身が、神が働いていても罪にも問題もならない、という事なのです。

7-8節 「私が喜びとするのは真実な愛、生贄ではない」と語られます。当時、律法の規定にしたがって生贄を捧げていた祭司たちは驚いたことでしょう。

しかし、生贄を捧げる本質を見失っていたのです。捧げられる犠牲は民を贖うものであり、主が罪と咎を赦し、きよめられる物なのです。正しく規則を守ることによって清くなるのではありません。

そして、極め付けは9ー10節以降で、イエスが会堂に入られた後に片手が萎えた人を癒したことを訴える始末です。

ここまでくると常軌を逸している領域ですが、実際にこのような極めて的外れな論争が起きてしまいました。彼らの決まりの中に安息日には瀕死の人以外は医療行為を行ってはならず、安息日が終わり次第の治療だったのです。ですので、安息日には癒しは禁じられていました。

もともと様々な規定はみ言葉を守るためにありましたが、本来神が定められた喜び楽しむという安息日からかけ離れたものとなってしまったのです。私たちも気をつけなければならない事は、みことば以外の価値観に生きる時に、初めのうちはなんの害もなく、むしろ良いものに見えるものであっても年数を重ねるうちに神のしてんから大きなズレが生じて害となって来ることです。

イエスは彼らに質問されます。11-12節 そして、癒されました。

先ほど、論争の原因がいくつかあると言いましたが、もう一つは彼らの嫉妬心と言えます。

彼らは前々からイエスを訴えることを考えていました。なぜなら当時パリサイ派の人々は尊敬されていましたが皆が彼らよりもイエスの教えに耳を傾けていることが面白くなかったのです。

嫉妬の原因はただ一つ自分中心なのです。自分以上に注目されることがあれば沸々と怒りを燃やします。自己卑下も同じことで、自分以上にできる人がいると拗ねるのです。

嫉妬心も自己卑下も日常的によく見かけられるものだと思いますが、それに囚われて行く時に多くの衝突を生み出し、良い技を破壊してしまうのです。

嫉妬、自己卑下の原因、重荷が焦りとなりそれにつながる。

私たちがそれらのものに囚われなくなるには、神に囚われ続ける必要があります。日々、み言葉から学び、特に安息日に主のみ技を再確認し心を新たにして感謝と喜びを捧げる者でありたいと思います。

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