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「栄光から栄光へと」

「栄光から栄光へと」

コリント2 3:18

現在、私たちはSNSから大きな影響を受けています。 facebook、インスタグラム、ラインなどはは加工ありきで、加工してアップし自分の存在意義をアピールできます。(いいね!獲得欲求)

そして、自分を知ってもらうために盛ってみたり、自分を大きく見せたりする傾向があります。 全ての人ではなく、等身大の人もいると思いますが、気持ちがわかると思います。

それを、若者の言葉を借りると「映え」と言います。

※「映え」意味ーはえること。はえるさま。見た目によく見えること。「見ばえ」ほまれ。名誉。 「 -ある栄冠をかちとる」

※映えさせたい理由 「なぜ、自分の生活を映えさせて、他人に見せたいのか」また、どのようなものが「映え」ているのか。その行動の狙いは何なのかを少し考えたいと思います。

例えばどのような写真が映えるのか。–可愛い・かっこいい・おしゃれ どのようなキャラクターがキャラ映えするのか。–面白い・賢い ・GAP萌え また、どのような生き方が映えある生き方なのか。 –偏差値が高い学校 .収入多い職業 .人から注目されるなど…

※しかし、例えインスタ映えや、人からの「映え」しているという高い評価を獲得しても。 「人も羨むような経歴や特技」は、あたかも「栄冠を取った」ように気持ちになるかもしれませんが、それらの物を全て手に入れたとしても、※イコール本当に映えある生き方になるわけではありません。

また、いいねを押している一人ひとりも、「いいね」と思うよりは、自分の現状と比較して落ち込んだりもするのです。

落ち込む原因は負け感情と言えますが、そもそも他人が成功していても負けているわけではありません。また、考えてみるとそもそもSNS上の成功写真などは必ずしも成功とは言えません。 大切なことは私たちは神に知られていることが重要であり、私たちが神とつながっているならばみな主にある祝福に預かってるのです。

確かにそのようなものは「いっとき」は「映え」するかもしれませんが、 流行が変われば見向きもされなくなるような「滑稽なものとなる」事さえあるのです。

※また、他人からも自分自身でも「映え」(冴えない)しない人間だと思っていたとしても、 本当に「映え」しない人間ではないのです。

例えばモーセは80才の羊飼いのおじいちゃんでした。 杖を持ってエジプトのパロのところに行き、※写真ー映えないおじいちゃん 他人もモーセ自身も映えしない人物だとおもっていましが… しかし、「神に目には彼は神の器」だったのです。

200万のイスラエルの奴隷から解放した。 神はモーセを通してみわざを行うことができました。

※神はモーセが神の器であることを見抜いていました。

また、キリストは会ったばかりのシモンに、「ペテロには岩という名前を与えた」りもします。

※名前を勝手に変えるキリスト!

弟子になる前は「ガリラヤ湖畔の無学な漁師」でした。

※性格は直情型というか、思い付きで行動してしまうタイプでした。 思い込んだら、あとさき考えずに一直線という感じです。

熱心な信仰を持っている一方、失敗も多く、キリストに叱られることもありました。

キリストが捕らえられた時、自分も捕まりそうになったペテロは、 ※「イエスなど知らない」と三度も裏切ってしまいます。

しかし、キリストは多くの人々がペテロから救われることを見抜いました。 そして、神様「映え」することを知っていたのです。

※人間の思う映えは(価値観)はすぐにかわってしまうもの、 「生きるための物差」しにはなりません。(facebookー成功劇場)

人が「映え」している、していない…という思いは「主観であって真理ではない」のです。 流行りや好みによっていくらでも変わってしまうのです。

それらの移り変わりやすい「人の価値観に囚われるな」てしまうと、私たちの心も信仰も安定しないでしょう。

しかし、私たちが「神の視点」にたつならば「私たち自身は神の宝の民」なのです。

結論:「私たちは神の最高の作品」

「※主の栄光を鏡に映すように見ながら」

私たちは主の栄光を映す鏡のような存在。 私たちが「自分の栄光を放つのではなく、」

主の栄光を仰ぎ見て神に近づき、 その「神の栄光を映し反射」させる。

※栄光は主のもの!

どんなに可愛くしても、賢そうにしても、用いられても、盛っても目立ちたくても、 主の栄光を取ることは出来ません。

私たちが主を仰ぎ見る時に、栄光から栄光へと変えられて行くのです。 私たちの「心が主の栄光を反射させる」のです。

※ですので、心の態度が大切ですみなさんの心は今どのような状態でしょうか。 ピカピカに磨かれている鏡のような状態でしょうか。もしくは「嫉妬や裁く心、苦い思いで満たされ雲っている」でしょうか。

※神の栄光を反射させたいならば、主を仰ぎ見て、鏡のような「澄んだ心にしてもらう」必要があります。

詩篇34:5-「彼らが主を仰ぎ見ると、輝いた」賛美と祈りと、みことばに生きること

※神の輝きが与えられる以上の「映え」は無い。 主の栄光を受け続けることが、最高に映え続けるのです。

モーセは神と出会い顔が一時的に輝きました。 証ー「千葉さん」かつては鬼といわれたが、いつも笑顔と言われる。

※映えさせたい思いは否定しません。イイね

映すものを「綺麗に魅力的に紹介したい心」は誰でもあることです。 そして、身なりを整える事は正常な状態と言えます。

ありのままでといって、真っ裸で裸で墓場に住んでいるレギヲンに取り憑かれた男のようだったら怖いでしょう…

※しかし、見栄は禁物−私たちを誤った方向へ導く

ただ、問題は「ばえ」させたい思いがいつのまにか「見栄」になってしまったら問題です。 なぜなら「見栄には極めて不健康な思いが隠れている」からです。

※見栄とはー意味(見栄)見た目の姿を意識して、実際以上によく見せようとする態度。

それはどういうことかというと、見栄の最大の問題は「今の自分ではダメだ」という考えが根底にあることです。 「あの人はあんなに出来るのに、あんなに成功しているのに、みんなから認められているのに…」 写真などの加工の理由が「私の写真は美化させる必要がある」、 「もしくは今の自分は魅力的ではない」という考えから来ているならば、 その思いは神様からのものではありません。

※信仰面も映えさせたいということは 「良い信仰者と認められたい」という思いからだと言えますが、 その思いの背後には「今の自分ではダメだ」という気持ちが隠れているのではないでしょうか。

これは他人からの、もしくは「自分自身の批判的な思い」であって、 「神の真理」ではありません。

※ダメだと思う理由は? 何かができないからですか? もしそうだとするならば、いったいその気持ちはどこから来ているのでしょうか。

そして、※本当にあなたは何か「見栄を張る」ことをしなければ、人からも神からも認められないのでしょうか。※私たちは「何でもできるクリスチャンになろうとす必要はありません。」 それよりも「何よりも主に頼る者となるべき」なのです。

※見栄を張りはじめたらきりがない写真の加工なんてはまだいい方です。

自分を大きく誇張する人もいれば、 自己卑下して自分を守る人、 人を裁く人もいれば、 忙しくすることで自分の価値を見出す人もいます。 また、人から頼られることで安心する人もいるのです。

※見栄は捨てましょう!あなたは神の宝と言われているのです。真理の真実な言葉を受け取りましよう!※見栄を張る行動は全て「自分や他人に目が行っている」のであって、神を仰ぎ見ていません。

これでは主の栄光を反映させことはできないでしょう。

「自分ばかり他人ばかりを見る必要は無い」と主の栄光を反映させることはできません。 なぜなら理由は単純で、主を仰ぎ見ていないから。

※私たちの存在は鏡、ただ主を仰ぎ見続ける必要があるのです。

※サタンの攻撃からの意識改革 「今の自分では足りないダメ…」この考え方自体が不幸の元凶で、 そのような考え方では本当の意味で映えることはできない。

その考え方は改める必要がある。

自分には「あれが足りない、これができない、無理です、大丈夫結構です…」 という心の思いは、サタンが私たちを落ち込ませるために、 「私たちの声に似せて攻撃を仕掛けている」のではないでしょうか。

これは創世記3:5でも見られるサタンの古典的な手口です。

「神のようになる。」とサタンはエヴァを誘惑しました。

もっと素晴らしい存在になるという誘惑でしたが、 神のようになるとはおかしな言い方で、 「もともと、神にせて造られた素晴らしい存在」なのです。

※現在「今の自分ではダメ…」という 「不確かな基準が猛威振るっている」ので、 不必要に傷つき、人の目がこわくなり、自分で自分のことを責めるのです。

私たちも、「そのままで良いところばかりではありません」が、 罪を除けば「神が造った最高の作品」なのです。

今のあなたでは足りない。 自分には無理!は嘘の情報です。

※ギデヲン 「あなたのその力で行きなさい。」135000の敵に300名で打ち勝つ

※パウロは肉体に棘があり、話も流暢ではありませんでしたが、 「私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる」と行動したのです。

※多くの人々に影響を与えた彼はおそらく、 「自で映えさせようとは思わなかった」でしょう。

※真理にとらわれる 「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」とありますが、 実際、「神様はみさんになんと語っていますか?」すでに皆さんに語られている言葉があると思います。

皆さんも知っているように私たちは「神の宝、神の民、神から愛される者」なのです。 ただ知っているみ言葉ではなく、その言葉を受け入れ 「み言葉を歓迎」するものでありたいと思います。

他人や自分自身は様々な評価をしますが、「私たちの価値は神が決める。」

みことばから外れた、「偽の情報に囚われるな」時に健全な成長と歩みができなくなります。 立派な信仰を持ちたいと思うかもしれませんが、映えある信仰は神と共に生きる歩みから自然と放たれるのです。

※信仰面でも「映え」させたい思いがある、とのことでしたが、(気持ちはわかる) そもそも、クリスチャンの歩みは「自分の理想の信仰者になるのではない」ありません。

私たちは「神の理想に生きる」べきもので、 「神のみこころよりも自分の願いを叶えようとする、」 その思いが一番危険のです。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

「鏡のように主の栄光を反映させながら」とあるように、 「自分のやり方、自分の生き方、自分の理想に生きるのではなく、」

神のやり方、御心に従って生きることが大切で、 それを通して主の栄光を反射させ本当の映えに繋がって行くのです。

エペソ2:10 良い行いをする作品ー良い行いとは神の栄光を現すこと

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)

私たちは製品ではなく、神の手作り(ハンド・メイド)による作品

日本で翻訳された聖書では「神の作品」となっていますが、英語ではGod’s masterpiece となっています。この masterpiece(傑作)とは、

オリジナルなもの、「一つしかないもの、コピーではない」もの、 「特別な、ユニークで、質の高い」という意味があります。(1節)

「私たちが神の作品」であるということは、私たちが神にとって「大切な、貴重な、」 しかもユニークな存在として、神様が主権をもって再創造して下さったということです。

ここで神がどのような目的で私たちを作られたのが、その目的が記されています。 その目的とは、私たちが「良い行いをするため」、あるいは「良い行いに歩むように」であり、しかも、その「良い行い」ができるように、「その力や知恵をあらかじめ備えて」下さっているのです。

この最後の「あらかじめ備えてくださった」というのは、この「良い行い」を実現させ ていくためのすべての力は、すでに神が備えて下さっていると約束しているということです。

※主が全てを備えてくださる なので、「何を成し遂げたか、何ができるか、ということよりも栄光なる方とともにいる事」が、本当の「映え」(主の栄光)を仰ぎ見る生き方となるのです。

親に言われてきた人や、心に悩みがある人も、 また、友達と楽しむために来た人もいると思います。

様々な思いがあると思いますが、「主を心の底から仰ぎみて、主の栄光が溢れる」

全ての解決は主が持っておられ、神よりも大きな問題はなく、主が取り扱えない問題も、 ありません。主から慰め、回復、解決を与えられましょう。

キャンプを通して、良い行いを神の助けにより実践し、 「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」コリント2 3:18

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