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あこるの谷を望みの門

  • taiwanchurchtokyo
  • 14 分前
  • 読了時間: 17分

 

テーマは:「アコルの谷を望みの門に」(亞割谷成為希望之門)

聖書箇所はホセア1~3章ですが、  (何西亞書1:1-3;2:19-20)

聖書朗読は1:1-3と2:19-20(新改訳本)でお願いします。

(新共同訳は1:1-3と2:21-22)

 

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新年おめでとうございます。寒い日が続いていますが、皆さんいかがお過ごしですか。今年も皆さんとともに、主を賛美し、礼拝できる恵みを感謝します。

新年快樂!希望大家一切安好,儘管天氣寒冷。我很感恩今年能再次與大家一起讚美敬拜主。

 

 

多くの人は、自分の心の弱さや汚さに失望しながら、もっと良い人間に変わりたいと思って、神を求めるようになります。世の人々は教会を、素晴らしい人間になるための修練・修養の場のように期待している節があります。

許多人因自身內心的軟弱和污穢而感到失望,於是尋求神,希望成為更好的人。世人似乎把教會視為一個訓練和培育的場所,以此來提升自我。

 

ところが聖書に最初から記されているのは、目を覆いたくなるような家族のスキャンダルであり、戦争の描写であり、様々な誘惑にすぐに負けてしまう人間の負の歴史です。けれどもそこに記されている物語の核心は、道徳ではなく、ラブ・ストーリーです。その代表格が今日開いているホセア書と言えます。

然而,從一開始,《聖經》就包含了令人震驚的家庭醜聞、戰爭描寫以及人類歷史上種種負面事件,人類很容易屈服於各種誘惑。但這些故事的核心並非道德說教,而是一個愛情故事。我們今天要讀的《何西阿書》就是一個絕佳的例子。

 

神が私たちに何よりも求めておられることは、周りの人々から尊敬される人格者になるとか、多くのお金を稼げる人間になるということではなく、神との愛の交わりを築き、深めることです。そして、神が私たちに対して何よりも悲しまれるのは、私たちが霊的な浮気をして別の神々に救いを求めることです。

上帝最希望我們做的,不是成為受人尊敬、品格高尚的人,也不是成為腰纏萬貫的人,而是與祂建立並加深愛的關係。而最令上帝傷心的,莫過於我們靈性上背棄祂,轉而尋求其他神明的救贖。

 

1.「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ」

1:1「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代」、主のことばがホセアに語られました。

 

その内容の中心は、北王国イスラエルが「ヨアシュの子ヤロブアム(ヤロブアム二世)」王の時代、全盛期の繁栄を謳歌していた時代に、神が、北のアッシリヤ帝国を用いて、彼らの偶像礼拝の罪をさばくというものなのですが、

1. “去娶一個淫婦為妻,娶一個淫亂的兒子吧!”

 

1:1 耶和華的話臨到何西阿,“猶大王烏西雅、約坦、亞哈斯、希西家在位的時候,以色列王約阿施的兒子耶羅波安在位的時候。”

 

這段信息的核心是,在約阿施的兒子耶羅波安(耶羅波安二世)統治時期,以色列北國正處於鼎盛時期,而上帝將使用亞述北國來懲罰他們拜偶像的罪行。

 

この時、主が最初にホセアに語られたことは、奇想天外なことでした。(1:2)「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。」つまり、不品行で、すぐに浮気しそうな女を敢えて妻とすることで、神がご自分の民から裏切られることの痛みをホセアも体験するようにという命令です。

此時,耶和華對何西阿說的第一句話非同尋常:(1:2)「你去娶一個淫婦和她那淫亂的兒子為妻,因為這地行淫亂,離棄耶和華。」換句話說,耶和華命令何西阿娶一個淫亂不忠的女子為妻,以此來體驗祂的子民背叛祂的痛苦。

 

 

これは、パートナーの浮気に耐えるようにという勧めや訓練ではありません。律法によると姦淫の罪は、石打ちの刑、死罪です。

 

私たちは、時に「みこころを教えてください」と祈りますが、神のみこころを知る、信仰の成長は、神の視点からこの世界を見るために、ご自分の民から浮気をされる神ご自身の痛みを理解するようになることと言えるのかもしれません。

這並非勸誡或教導人們容忍伴侶的不忠。根據當時的法律,通姦的刑罰是石刑或死刑。

 

我們有時會禱告說:“求你指示我你的旨意”,但明白神的旨意並在信仰中成長,也可以理解為從神的視角看待世界,並體會到當神的子民背信棄義時,神所感受到的痛苦。

 

ホセアは神のことばに従って「ディブライムの娘ゴメル」を妻として迎えます。彼女はみごもって、彼に男の子を産みました(1:3)。「彼に…産んだ」とあるように、この子は明らかにホセアの子でした。主は彼に「その子をイズレエルと名づけよ」(1:4)と命じます。イズレエルは、地名。ある時代は戦いの中心地となったところです。

何西阿遵照神的旨意,娶了底伯蘭的女兒歌篾為妻。歌篾懷孕,為他生了一個兒子(1:3)。經上說“她生了他…”,這孩子顯然是何西阿的。耶和華吩咐他「給孩子起名叫耶斯列」(1:4)。耶斯列是曾經的戰場中心。

 

それから「ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ」(1:6)とありますが、3節と違い「彼に」と言われていないので、この娘はゴメルの浮気相手との関係で生まれた子ではないかと思います。その子の名は、「ロ・ルハマ」でした。これはラハム(あわれむ、愛する)の否定形。主はその理由を「わたしはもう二度とイスラエルの家をあわれむことはなく、決して彼らを赦さないからだ」と言われます(1:6)。

經文接著說:“歌篾又懷孕,生了一個女兒”(1:6),但與第3節不同的是,這裡沒有說“給他”,所以我認為這女兒是歌篾與情人所生的孩子。孩子的名字叫「羅路哈瑪」(Lo-Ruhamah),是raham(憐憫、愛)的否定形式。耶和華解釋原因時說:「我必不再憐憫以色列家,也永遠不再赦免他們」(1:6)。

 

その後「ゴメルは、ロ・ルハマを乳離れさせると、みごもって男の子を産んだ」(1:8)とありますが、これもゴメルの浮気から生まれた子だと思われます。そして「その子をロ・アンミと名づけよ」と命じられます。これは「アンミ」(わたしの民)に否定形のロをつけたもので、その理由は「あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」と説明されます(1:9)。生まれた子がホセアの子ではないように、北王国イスラエルも神の民ではなくなるというのです。

後來,經上說:「歌篾斷了羅路哈瑪的奶,就懷孕生了一個兒子」(1:8),這很可能也是歌篾不貞所生的孩子。以色列人隨後被吩咐說:「你們要給他起名叫羅阿米。」這是「阿米」(我的子民)的否定形式,原因是「因為你們不是我的子民,我也不是你們的神」(1:9)。正如這孩子不是何西阿的兒子一樣,北國以色列也不再是神的子民。

 

妻の浮気から生まれた二人の子に神の命令によって不思議な名前を付けながら、ホセア自身も妻の浮気の結果を引き受ける痛みを通して、神の痛みを理解していったのではないでしょうか。

何西阿奉上帝的命令,給了因妻子不忠而生的兩個孩子奇怪的名字。他自己或許也因此體會到了上帝的痛苦,因為他承受著妻子不忠的後果。

 

 

2.「初めの夫に戻ろう。あのころは今よりも幸せだったから」

1:10「イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂のようになる。」これは、アブラハムがひとり子のイサクをささげた時、主が与えてくださった約束「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。」(創世記22:17,18) が、忘れられていないということです。神の約束は、人の不従順にも関わらず全うされるのです。

2. “我要回到我前夫那裡去,因為我那時比現在好。”

 

1:10 「以色列人的數目必像海邊的沙,不可量,不可數。」這意味著,當亞伯拉罕獻上他唯一的兒子以撒時,耶和華所應許的:「我必賜福給你,使你的後裔極其繁多,如同天上的星,海邊的沙」(創世記 22:17-18)並沒有被忘記。即使人悖逆,神的應許依然成就。

 

 

そればかりか主は、イスラエルの民が「わたしの民ではない」と言われたその場所で「生ける神の子ら」と呼ばれるようになる、と大逆転の約束をされます。

此外,耶和華應許將會發生大逆轉,在以色列人曾被告知「你們不是我的子民」的地方,他們將被稱為「永生神的兒子」。

 

その後の1:11「イズレエルの日は大いなるものとなる」と2:1「言え。あなたがたの兄弟には『わたしの民』と。あなたがたの姉妹には『あわれまれる者』と。」は合わせて、今までの三人の子の名前の意味が逆転されるということです。

以下經文 1:11 “耶斯列的日子必偉大” 和 2:1 “要對你們的弟兄說:‘我的子民’,對你們的姐妹說:‘仁慈的’” 結合起來,顛倒了這三個孩子名字的含義。

 

 

つまり、血の海となっていたイズレエルの日が「大いなる」祝福の日となり、「ロ・アンミ」と呼ばれた者が「わたしの民」と呼ばれ、「ロ・ルハマ」と呼ばれた者が「あわれまれる者」と呼ばれるようになるという逆転です。主にあって「のろい」が「祝福」に変わるからです。

換句話說,耶斯列的日子,如同血海一般,將變成一個“偉大”的祝福之日;那些被稱為“羅阿米”的人將被稱為“我的子民”,那些被稱為“羅路哈瑪”的人將被稱為“憐憫”,因為在耶和華那裡,“咒詛”將變成“祝福”。

 

2:2~5では一転して、神の怒りに満ちたさばきのことばが描かれます。ゴメルは言っています。「私は愛人たちの後について行こう。彼らはパンと水、羊毛と麻、油と飲み物をくれる」彼女はパンも水も羊毛も神の恵みであることに気づいていないのです。

在2章2-5節中,上帝的憤怒審判透過一連串事件的徹底轉變展現出來。歌篾說:「我要去跟隨我的愛人;他們給我餅和水,羊毛和細麻,油和水。」她並不知道,餅、水和羊毛都是上帝的恩賜。

 

2:6「それゆえ」神ご自身が、ゴメルが、イスラエルの民が、また私たちが偶像礼拝にこれ以上走ることができないように道を塞いでくださるのです。ゴメルは「愛人たちの後を追っても、追いつけない。彼らを捜し求めても、見つけられない。」(2:7)そうなって初めて、神に立ち返ろうとします。「彼女は言う。『私は初めの夫のところに戻ろう。あのころは今よりも幸せだったから』と。」

2:6 因此,上帝親自為歌篾、以色列人和我們擋住了道路,使他們不能再沉迷於偶像崇拜。歌篾「追趕她的情人,卻追不上;尋找他們,卻尋不見」(2:7)。直到那時,她才試圖回到上帝身邊。 “她說:’我要回到我原來的丈夫那裡去,因為我那時比現在更快樂。’”

 

 

これは新約聖書のたとえ話、放蕩息子の姿に似ていると思いました。彼が飢えに苦しみ、豚のえさで腹を満たしたいと思うようになって初めて、父のもとに帰る決断をしたことです。酒やギャンブルにおぼれて、喜びや興奮より悲しみと絶望を見いだすようになって初めて、神に立ち返る姿です。残念ながら、私たち人間は、絶望や破滅を目の前にして初めて、気づくのだと思います。

我覺得這很像新約聖經中浪子的比喻。浪子只有餓了,想吃豬食填飽肚子時,才決定回到父親身邊。只有當他沉迷於酒精和賭博,感受到的不是喜樂和興奮而是悲傷和絕望時,他才重新歸向神。可惜的是,我覺得我們人類只有在面臨絕望和毀滅時,才會明白這個道理。

 

それにしても「私の愛人たちの後をついて行こう」(2:5)と言っていた姦淫の女が(2:7)「私は初めの夫のところに戻ろう」と言うようになるのは、神が姦淫への道を塞いでくださったからに他なりません。神は私たちの悪への道を塞ぐことによって、私たちに悔い改めへの思いを導いてくださいます。

然而,那位曾說「我要去追隨我的情人」(2:5)的淫婦,如今卻能說「我要回到我原來的丈夫那裡去」(2:7),是因為神阻擋了她行淫的道路。神阻擋我們走向罪惡,因而引領我們悔改。

 

 

3.「アコルの谷を望みの門に」

そして恩知らずなイスラエルに対し、再び神のさばきが9節から語られます。(2:9-13)「それゆえ、わたしはその時になれば、わたしの穀物を取り返す。その時期になれば、わたしの新しいぶどう酒を、また彼女の裸をおおっているわたしの羊毛と麻をはぎ取る。今、わたしは彼女の恥を、愛人たちの目の前で暴く。彼女をわたしの手から救い出せるものはいない。わたしは彼女のすべての喜びを、祭り、新月祭、安息日、すべての例祭を終わらせる。『これは愛人たちが払ってくれた私への報酬』と彼女が言った、あのぶどうの木といちじくの木を荒れすたらせる。わたしはこれを林に変えて、野の獣がむさぼり食うようにする。彼女がバアルの神々に仕えた日々のゆえにわたしは彼女を罰する。彼女はバアルの神々に香を焚き、耳輪や飾りをつけて、愛人たちの後について行き、このわたしを忘れた。ーー主のことば。」 

3. “使亞割谷成為希望之門”

 

上帝對忘恩負義的以色列的審判在第9節(2:9-13)再次開始:「因此,我必按時收回我的五穀,按時收回我的新酒,以及她用來遮蓋赤身的羊毛和細麻。現在,我必按時收回我的五穀,按時收回我的新酒,以及她用來遮蓋赤身的羊毛和細麻。現在,我必在她情人的眼前顯露她的羞恥,無人能救她脫離我的手。我必止息她的一切歡樂,就是她一切的歡樂,就是她一切的節期、月朔、安息日和一切的節期。

 

彼らは「神からの賜物」を「バアルからの報酬」と言った報いを受けます。私たち自身も神からいただいている様々な恵み、賜物を、自分の知恵や力で勝ち取ったもの、得た報酬と考えてはいないでしょうか。私たちの家族も地位も財産もすべて神からの賜物です。勘違いしてはいけません。

他們所領受的獎賞竟稱「上帝的恩賜」為「巴力的獎賞」。或許我們也常常把從上帝那裡得到的各種祝福和恩賜,視為我們憑藉自身智慧和力量所贏得的獎賞。我們的家庭、地位和財產,都是上帝的恩賜。我們切不可誤解這一點。

 

この後14節からは、驚くような神の祝福の計画が語られます。「見よ、わたしは彼女を誘い、荒野に連れて行って、優しく彼女に語ろう。わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする。」

 

イスラエルの民は、バアルの偶像礼拝に魅了されてまことの神から離れたのですが、今度は神ご自身が彼らをいざなって、敢えて何もない「荒野」に連れて行き、そこで「優しく語り」、荒野をぶどう畑に変えてくださるというのです。

第14節揭示了上帝奇妙的祝福計劃:“看哪,我必引誘她,領她到曠野,對她說溫柔的話。我必使那曠野成為她的葡萄園,使亞割谷成為指望的門。”

 

以色列人曾被巴力的偶像崇拜所吸引,背離了真神,但如今上帝要親自引誘他們,大膽地帶領他們進入荒涼的“曠野”,在那裡“對他們說溫柔的話”,並將曠野變成葡萄園。

 

そして、ここでは「わたしは」と主語が神であることが強調されながら「アコルの谷を望みの門とする」と告げられます。これは実はびっくりするようなことばです。

這裡,由於強調上帝是主語,所以使用了“我”,並說道:“我必使亞割谷成為希望之門。” 這番話著實令人驚訝。

 

というのも、「アコルの谷」は、イスラエルの民がヨシュアに導かれて約束の地に入ってきたとき、アカンとその一族が、神のさばきを受けて石打ちにされ、埋められた場所(ヨシュア7:24-26)なのです。イスラエルの民がエリコの町を征服した時、アカンは聖絶すべき分捕り物を盗んで隠しました。そのためイスラエルは神の怒りを受けて次の町アイへの攻撃でまさかの敗北を喫します。彼らはアカンの罪によって、一転して民族滅亡の危機にさらされたのです。アカンは自分の罪を認めましたが、彼の一族がイスラエルの民によって絶滅させられるまで、神の燃える怒りはおさまることがありませんでした。

亞割谷是約書亞帶領以色列人進入應許之地時,亞幹及其家人因神的審判而被石頭砸死並埋葬的地方(約書亞記 7:24-26)。以色列人攻佔耶利哥城後,亞幹偷竊並藏匿了原本要被銷毀的戰利品。這觸怒了神,導致以色列人在攻打下一個城市艾城時遭遇了意想不到的失敗。亞幹的罪行使以色列全族面臨滅亡的危險。亞幹承認了自己的罪行,但神的烈怒卻不肯平息,直到他的全家被以色列人徹底消滅。

 

 

それ以来「アコルの谷」は「神の呪い」のシンボル的な意味を持つようになりました。

從那時起,亞割谷就成了上帝詛咒的象徵。

 

私たちにも「アコルの谷」があります。多くの人々は、そのような闇に真正面から向き合う勇気を持ちません。私たちの周りにも、神の怒りを受けるべき「アコルの谷」悪の世界があります。できたら目を背けていたい問題があります。しかし、私たちがそれに正面から向き合い、神に向かって祈る時、そこに「望みの門」が開かれます。

我們每個人心中也都有自己的「亞割谷」。許多人缺乏勇氣直面這樣的黑暗。在我們周圍,到處都是“亞割谷”,一個罪惡的世界,理應受到上帝的懲罰。有些問題我們寧願視而不見。然而,當我們直面這些問題,向上帝祈禱時,「希望之門」就會敞開。

 

 

そして「その日」になると、主は「もろもろのバアルの名を彼女の口から取り除く」と言われます(2:17)。彼らは自分から進んで、偶像礼拝から離れるようになるのです。

到那日,耶和華說:「我必從她口中除掉巴力的名號」(2:17),他們必自覺離棄偶像。

 

そして「その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地面をはうものと契約を結ぶ。わたしは弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。」(2:18)と言われます。彼らはもう野の獣からの攻撃も、弓と剣による人間からの攻撃からも神によって自由になることができます。安らぐことができます。

經上說:「到那日,我必為他們與田野的走獸、空中的飛鳥、地上的昆蟲立約;我必使弓、刀和戰爭從地上止息,使他們安然居住。」(2:18)如今,上帝將使他們免受田野走獸的攻擊,也免受人類用弓箭和刀劍的攻擊。他們將能夠安然居住。

 

そして神は再びイスラエルの民に永遠の愛を誓ってくださるのです。(2:19,20) 「わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。義とさばきと恵みとあわれみをもって、あなたと契りを結ぶ。真実をもって、あなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知る」これらは、神がご自身の民を決して見捨てることなく、守り通してくださるという真実の約束を意味します。

上帝再次向以色列人許下永恆的愛(2:19-20):「我必與你們立約,直到永遠;我必憑公義、公平、慈愛、憐憫與你們立約;我必與你們立約,直到永遠;我必憑公義、公平、慈愛、憐憫與你們立約;我要憑信實與你們立約,你們也必認識耶和華。」這些都是真實的應許,上帝永不離棄祂的子民,必會保護他們。

 

その上で、再び、ゴメルから生まれた三人の子の名前を逆転させるという意味で、神が「イズレエル」を豊かな実りの地に変え、『愛されない者』という意味のロ・ルハマという名を神の愛の対象とし、『わたしの民でない者』という意味のロ・アンミを『あなたはわたしの民』と言う逆の名前に変えるというのです。彼らの名が祝福の名に変えられるということは、私たちひとりひとりも闇や過去の悪習慣から自由にされ、新しくされることの象徴と言えます。

然後,上帝再次顛倒了歌篾所生的三個兒子的名字,將「耶斯列」改為豐收之地,將羅路哈瑪(意為「不被愛的」)改為上帝所愛的對象,將羅阿米(意為「非我子民的」)改為相反的意思「你們是我的子民」。他們的名字被改為祝福之名,象徵著我們每個人都從過去的黑暗和惡習中被釋放出來,獲得新生。

 

 

その上で主は再びホセアに向かって「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。」と言われます(3:1)。売春奴隷に身を落とした元妻を愛するように命じられるのです。

然後耶和華又告訴何西阿說:「你再去愛她丈夫所愛的、與人通姦的女人」(3:1),命令他去愛他那已經淪為妓女的前妻。

 

 

そこで彼は「銀十五シェケルと大麦一ホメル半で」彼女を奴隷状態から買い戻します(3:2)。これは当時の奴隷売買の相場なので、彼女は身を持ち崩して奴隷になっていたのでしょう。

他用「十五舍客勒銀子和一賀美爾半大麥」(3:2)把她從奴隸中贖了出來,這是當時奴隸的通行價,所以她一定是淪為奴隸了。

 

ホセアは「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」そう言ってもう一度夫婦関係をやり直す約束をします。

何西阿說:「你當長久與我同住,不可再犯姦淫,也不可與別的男人親近,我就與你同住。」這樣,他就承諾要與他們重續婚姻。

 

そして、このホセアとゴメルの関係が、再び、神とイスラエルの関係にたとえられ、「これは、イスラエルの子らが、これから長く、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱もないところに、エポデもテラフィムもないところにとどまるからだ」(3:4)と言われます。これは、イスラエルが長らく国を失うことを意味しました。しかし同時に、イスラエルの最終的な回復の約束が描かれます。(3:5)「その後で、イスラエルの子らは帰って来て、自分たちの神である主と、自分たちの王ダビデを尋ね求める。そして終わりの日には、主とそのすばらしさにおののく。」

何西阿與歌篾的關係再次被比喻為上帝與以色列的關係:「以色列人必長久沒有君王,沒有首領,沒有祭祀,沒有柱像,沒有以弗得,沒有家神」(3:4)。這意味著以色列將長期失去他們的國家。但同時,這也描繪了以色列最終復興的應許(3:5):“以後以色列人必歸回,尋求耶和華他們的上帝和他們的王大衛。在末後的日子,他們必驚奇耶和華和他的恩慈。”

 

 

姦淫の女ゴメルは、神の命令を受けたホセアによって初めて帰って来ることができました。私たちが神のみもとに帰ることができるのも、神の一方的な恵みのみわざです。

淫婦歌篾之所以能夠迴轉,全賴何西阿領受了神的命令。同樣,我們能夠迴轉歸向神,也是出於神單方面的恩典。

 

私たちも、自分がどれだけ人を愛しているかよりも、自分がどれだけ愛されているかに気付いて感謝する者でありましょう。神との関係にも当てはまります。あなたは神に愛されている尊い存在です。その愛をもう一度握りなおしてください。信仰は、私たちが何度神を忘れ裏切っても、神が私たちを愛し続けてくださることを知る歩みです。           

與其擔憂我們愛別人多少,不如也意識到並感恩自己被愛。這同樣適用於我們與神的關係。你是神所珍愛的寶貴生命。再次緊緊抓住這份愛吧。信仰的真諦在於,無論我們多少次忘記祂、背叛祂,祂始終愛著我們。

 

ホセアは神の命令により浮気女のゴメルを娶り、三人の子供たちに忌まわしい名前を付けました。しかし、そこには、神が彼らに与えられた「のろい」を「祝福」に変えてくださるという奇想天外な望みがありました。神は変わりようのない人間をもご自身の子として受け入れ、造り変えることのできるお方です。

何西阿遵照神的命令,娶了不忠的歌篾為妻,並給他們的三個孩子取了難聽的名字。然而,他卻懷著非凡的希望,相信神會將他加在他們身上的咒詛變為祝福。神甚至能夠接納最頑固的人為祂的兒女,並改變他們。

 

 

皆さんの2026年の歩みが、神の愛をさらに深く味わう日々でありますように祈ります。

我祈禱您在 2026 年的旅程中,能夠更深刻地體驗上帝的愛。

 
 
 

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