ラザロのよみがえり

よみがえりの希望ー絶望からの奇跡ー

ヨハネ11:38-45

1:テーマ 信仰の内に働く神の奇跡

ラザロのよみがえり、ヨハネの福音書の中で、7回目の奇跡。 この箇所から、不可能のない神の力「よみがえりの希望」を学びたいと思います。

結論:主の栄光が表されることが、私たちの頼むべきところ

a.どのような状況だったのか

1-3節 ラザロが病気であることを告げられる。 マルタとマリアは、彼らとイエスは親密な関係にあった。特にマリアの行動は、(熱心に話を聞く姿勢や、キリストの埋葬の準備のために高価な香油を注ぐなど)「主から愛され、認められていた者」たちでありました。

b.死を打ち破る神の救い

キリストが3節で、「あなたが愛しておられる者が病気です」と聞くと、4節:イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

キリストはラザロの死から、キリストを信じる者は死んで終わりではなく、永遠の命の恵みに預かることを教えようとされていた。

6節を見ると、ラザロの病気が知らされてなお、2日その場に滞在している。これはあえて「ラザロの肉体の死を確実なもの」とされるためだったと言えます。

.ラザロの死は仮死状態ではないことがわかる Jewish コメンタリー調べ 17節 四日経っていたことを明記しています。39節にはマルタも4日経ち臭くなっているとキリストに答えています。これは3日の期間が過ぎ、死が確認されてラザロが生きている可能性がなくなったということを意味しているのです。

医学が発達していない当時は昏睡状態と死を正確に判別できず、誤って埋葬してしまうことがあったので、ユダヤ人は死後3日間は毎日お墓に行き、遺体を調べて、生きていないか確認していたと言われています。

人間の最大の問題は死と言えます。私たちには、さまざまな試練はありますが、人は生まれながらに、死の恐れの下に生きているのではないでしょうか。

そして、どのような対策をしても、私たちは死から逃れることはできません。ですので、キリストの救いは「神の栄光は死の打ち破りによって、明らかにされる」と言えます。

25-26節 キリストを信じるものは死んで終わりではなく、死んでも生きる命が与えられる。「死が終わりではない。」死の絶望は私たちを支配しないというのです。

.イエスが教えたかったことは、「神の栄光は死を打ち破る」ということです。

2:信じる者にとって死は一時的なもの

聖書では、信者が死ぬことを、「眠っている」と表現しています。例えば、パウロは、テサロニケ人に、「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことがないためです。(Ⅰテサロニケ4:13)」と話しています。

また他の個所でも眠っていると例えられており、イエスは、ヤイロの娘のことを、「子どもは死んだのではない。眠っているのです。(マルコ5:39)」と言われました。

11-13節を見ると、主が愛されている者、ラザロの状態から死が「眠っている」と例えられています。- 信仰者にとって、死は一時的なものなのです。なぜなら、信じる者は死んでも生きることを約束されていて、「しばらくすれば目が覚めるのと同じ」ように、しばらくすれば生き返るのと言われています。

.神の目には、キリストを信じる者は、「死はもはや意味をなさない。」一時的に眠ってると言われています。

神は私たちに「他の望みのない人々のように悲しみに沈むことがない」ように伝えているのです。

3.キリストの到着ーマルタとマリヤの落胆

20節を見ると、キリストが彼らの所に到着されます。マルタは出迎え、「マリヤは家で座っていた」ていました。7日間の喪に服していた期間であり、オーソドックスなユダヤ教徒はこの間、神殿に祈りに行くことはなく仕事もせず、ひたすら家の床や低いところに座る。当時もおそらくその習慣があったと考えられている。

しかし同時に、2人の性格が表されている所だといえます。

a.マルタの落胆 21節 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言っています。

 ここには、落胆と少し苦みが入っています。「いてくださったら直っていたでしょうに、なぜもっと早く来られなかったのですか。」と言っています。ようするに、マルタが言いたかったこと。イエスがいたら助かったのに、なぜ早く来なかったのか?

と言いたいのです。なぜなら、18節 ベタニアからエルサレムは3キロの道のりであり、ラザロを助けようと思えば、すぐにでも駆けつけることができたにもかかわらず。2日間も遅れて到達したからなのです。

4.復活の信仰ー霊的解釈

a.復活の信仰 イエスは23節で落胆するマルタに「あなたの兄弟はよみがえります。」と宣言されます。

24:マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼が、よみがえることを知っております。」と答えます。

.当時の人々復活の信仰がある 22ー27節 マルタは復活の信仰があることがわかる。 ダニエル12:2当時の人々も復活の信仰があった。

25ー26節イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

27節:では。はい主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。

32節 マリヤも同じで、病を癒すキリストを信じているが、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と答えている。病を癒すことはできるが、死を打ち破る方とは思っていない。

しかしこれは、死者の復活は霊的解釈であり、※目の前で実際に死者がよみがえるとは思っていなかったと言えます。

b.霊的解釈に留まる神の民

37節 群衆もおなじであった。が、死を打ち破る方とは信じていない。例えるならば、病を癒す以上のことが、起こらないと思っている。「もう、これ以上はむりだ。これ以上の奇跡は起きないだろう」と決めてしまっているのです。

※私たちもこのような時がある。神の力を制限して、当たり前のように小さな神にして、それを信じてしまっているのです。

5.人を束縛する死に対する怒り

a.キリストの憤り

33-35節 イエス、心が騒ぎ、憤り、涙をながす。 これは非常に珍しい状況です。なぜ、これほどまでに憤り、心を騒がされたのでしょうか。

その原因は2つあると感じます。1つは死に対する怒りです。「人は本来死ぬ必要は無かった。」サタンの誘惑によって罪が入り、死ぬようになったのです。「私たちは死ぬために生まれてきたのではありません。」死なせるために命を与えるとするならば虐待行為であり、神はそのような方ではないのです。

b.死は本来なかったもの

2つ目は、あまりにも死が当たり前になり、「人は死を受け入れ、キリストよりも死を信じている。」これは希望よりも、絶望を信じているのです。

しかし、キリストが私たちに伝えたいことは、「私が死を打ち破るので、絶望はない!」と言うことなのです。マルタや他の人々、また、主のイエスのことを深く理解していた、マリヤでさえも、「死と絶望に囚われていることにたいして、歯がゆさと、人を苦しめる本来なかった死に対して、憤りられたのでしょう。」

6.私たちが信じるならば神の栄光を見る

a.信仰による約束

「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と私は言ったでありませんか。」40節 と言われるいわれます。

絶望に囚われる全ての人にたいして、信仰に立ってことを喚起さらるのです。「あなたは今まで立派に信じてきました、なのでさらに私を信じ、期待して立ち上がりなさい!」と言われるのです。

.みなさんはどう思いますかー応答とチャレンジー 私たちに向かって発せられている言葉ではないでしょうか。 主は私たちに対して、「なぜ、私よりも死を受け入れているのか?私よりも困難を受け入れているのか?」

「あなたが信ずべきは、死をも打ち破る不可能のない神であるべきです!」と語られている。

私に帰りなさい。戻って来なさいと言われているのです。

41節 イエスは目をあげて祈った。ユダヤの人たちも目を開けて祈る。今日クリスチャンは神様に集中するために目を閉じて祈る。 イエスはラザロがよみがえる前に感謝している。 「祈りが答えられる確信がありました。」

44節 ラザロはよみがえります。布を巻かれた状態で墓から出てきたことは衝撃的な出来事であったでしょう。 「時として神のは、常識をくつがえすようなことをなさるのです。」

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光をみる。今日、この言葉を信じることができるでしょうか。」

確かにクリスチャンであったとしても、肉体の死はあります。しかし、十字架の許し、死からのよみがえりを信じる者は、「永遠の命の恵みに預かっている」ことを覚えたいと思います。

「荒井さん証」ーお葬式、笑顔になっていった。天国で生きているとしか思いようのないことが起こる。

7.信じきった者の行動 結論:栄光の主を拝し、出会う。 この後、イエス十字架刑で処刑されます。私たちの罪の贖いのために死なれました。埋葬が行われましたが、親しくしていた彼女がなぜイエスの墓に行かなかったかという点です。他の女性たちが墓に正式な埋葬を遺体に施すために行っているのに、マルタとマリヤは行っていないのです。

11章でも書かれているように、イエスから愛され姉妹たちであればなおのことです。「おそらく彼女たちはイエスがよみがえることをラザロの奇蹟を通して、またイエスの話しを聞いた通りに、死から復活されることを信じていたのではないでしょうか。」

弟子たちは「死んだのち、よみがえる」という話をイエスからなんども繰り返し聞かされていたにもかかわらず、耳に入っていませんでした。しかし、とりわけマリヤはそのことを受留め、悟っていたのではないか思います。

イエスは言われました。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」―すでに「知らされている」のです。しかし、それをしっかりと受け止めることができたのは、なんと弟子たちよりもこのベタニヤのマリヤでした。 私たちもキリストの友として、神の無限の可能性を信じるものでありたいと思います。

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