あなたの誇りは何ですか
「あなたの誇りは何ですか」
聖書朗読▼エレミヤ9:23-24(新共同訳では9:22-23)
23.—―主はこう言われる—―知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。
24.誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。—―主のことば。
序
おはようございます。昨年とは大違いの涼しかった6月を経て、いよいよ本格的な夏が始まりました。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
この夏私は、今週末に九州福岡のhi-b.a.集会のお手伝いに行くのと、その足で長崎の教会訪問をするのと、hi-b.a.の夏キャンプ、そして別の教団のユースキャンプの奉仕の準備に大忙しです。hi-b.a.が所有している千葉県九十九里浜にあるキャンプ場が建築準備のため使えないので、同じ千葉県ですが、成田空港の近くにある、東京基督教大学(エステルが卒業した大学ですね)のキャンパスをお借りしてhi-b.a.のキャンプを行うことになったので、いつも以上の配慮が必要で、頭も体もフル回転という夏になっています。まずは、自分自身の心と体が守られて、良い状態で高校生たちに向き合えるように、福音をことばと姿で伝えることができるようにお祈りください!
本
◆誇りとは!?
さて、今日のみことばに繰り返し出てきている「誇り」とは何でしょう?皆さんはどのようなイメージを持っている言葉でしょうか。
時々、「プライド」とか「自慢」と混同される言葉のように思います。が、「誇り」とはそもそも、何かに対して価値や自信を感じ、名誉に思う心のことです。それが自分の内面的な自信を指しているのと異なり、「プライド」は、その自信が見栄や頑固さに繋がる否定的な意味で使われることがあります。そして「自慢」はそれを他の人たちに示すこと、見せびらかすこととも言えるでしょう。
ですから、「誇り」は必ずしもネガティブな意味を持つ言葉ではありません。自分や相手の存在やその業績(行動や作品など)に対して、価値を認めるポジティブな感情です。皆さんもご自分の仕事や家族や文化に対して誇りを持っていませんか。それは責任感に繋がり、尊厳や名誉を感じる生き方だと言えるでしょう。決して悪いものではありません。
例えば、私はTVのドキュメンタリーが好きで「カンブリア宮殿」とか「ガイアの夜明け」とか時々見るのですが、小さな町工場が、小規模であっても丁寧な仕事をし、高い品質を保ち続けている様が取り上げられます。それが実際社会に、世界への貢献に繋がっていることを知ると、感動します。お金や名声のためではなく、人々を助けるため、誇りを持って働く姿は立派だなあと思うのです。
さて、今日の聖書箇所の「誇る」は、英語の訳では「boast 」という言葉が使われています。プライドではなく、むしろ自慢と訳される言葉です。それを意識しながら今日のみことばを考えてみたいと思います。
◆あなたの誇りはどこにある
私たちにはどんな「誇る」ものがあるでしょう。みことばは3つのものを挙げています。①知恵 ②力 ③富
確かにこれらは時を超え、空間を越えてもこの世界で、価値あるものです。みんなが求めるものです。
あなたなら、今、知恵があったら何をしますか。力があったらどうしたいですか。富があったらどう使いますか。
知恵があれば、この難局を乗り越えられる。力があれば、この重いものを持ち上げられる。富があれば貧しい人たちを救える。そうやってこれらを自分のために使い、また人のために使って歩みたいと思うでしょう。
今、これらのものがあなたに備わっていないかのように話してしまいましたが、正確に言えば、皆さんはすでにこれらのものをお持ちです。大小、量の違いはあれど、神様はここにいらっしゃる皆さんそれぞれに確実に与えてくださっています。
そうです。これらのものはすべて神様から与えられたものです。なのに人間はすべて自分で得たものとして自由に使えると思っています。
ところで、今日皆さんがみことばを読んだ時に想像できる反応は、
・このことばのどこかが当てはまってドキッとする。
・自分は知恵も力も富もないから誇ってない、誇るわけがないと思う。
というようなことだったんじゃないかと思います。
文化的な違いや個人差は多少あると思いますが、私たちは自分が持っているもの、与えられたものを、シンプルに喜ぶ時・状態・段階があり、次にそれを人と比較してうらやましく思ったり、落ち込んだり、悔しさをバネにして頑張ったり、逆に意気揚々としていばったりする状態があるでしょう。そこに「誇り」というものが出てくるのだと思います。
知恵も力も富も、これらのものはそれ自体は悪いものでは決してありません。でもそれを誇って、それを頼みとするとき、そこに誘惑があり、落とし穴があるのです。
◆人間的な誇りに対する戒め
パウロは、手紙の中でこのように言いました。
エペソ2:8-9「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
そうです。私たちが救いをいただいたのは神様からの一方的なプレゼントでした。誰も、良い人間だったからとか、立派な業績があるからとか、そういうことで救われたのではありません。自分には何も誇れるものはないのです。
またこうも書いています。
Ⅰコリント3:21「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。(すべては、あなたがたのものです。)」
この手紙の送り先、コリントの教会には問題がありました。3:4~にあるように、「自分はパウロ派」「いやいや自分がアポロ先生の方がいいな」などと言う声が上がり、分裂しかかっていたのです。これは、自分ではなく、他の人を誇る、他の人を頼みにしているということでもあります。
確かに私たちの周りには、頼りがいのある人がいて、誇らしく自慢できる家族がいて、私たち自身も自分の努力で手に入れた技術や能力や知恵や財産があるでしょう。けれども、もともと私たちは何一つ持っていなかったのです。様々な知恵知識や力や富は神様がくださった恵みの一部です。それを忘れてはいけません。
聖書はこう言っています。
◆神を誇る
ローマ5:11「それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。(新共同訳では”誇りとしています”)キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。」
Ⅰコリント1:31「『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りになるためです。」
私たちが誇り(boast)、自慢すべきは、神様、主ご自身なのです。
自分の知恵や力や富を「誇る」時、私たちはどうなるでしょう。自分を高くし、人をさげすみ、あるいは人と比較して自分が落ち込み…というような反応が想像できます。
一方で「神を誇る」時、私たちはこの知恵や力や富を与えてくださった神様に心が向くわけです。それは人やあなた自身を傷つけません。むしろ、感謝や葛藤、時には求める思いがあふれてくるでしょう。
ところが、ここまで話すと、聖書をお読みになっている方は「あの人」の自慢話が思い出されていたかもしれません。それは、パウロという人のことです。
◆パウロの誇り
彼が書いたコリント人への手紙第二には、何度も「誇り」という言葉が出てきます。(1:12,5:12,7:4,14…)中でも11~12章にかけてはパウロが自分の証しを語って「誇って」いるのです。
11:10…私のこの誇りが封じられることはありません。
11:18多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
11:21…私もあえて誇りましょう。
12:1私は誇らずにはいられません。‥‥
実際に彼がこの間で語っている彼についての話は、十分「誇れる」内容でした。この手紙のここだけを抜き出して読むならば、この人はどれだけ自信があり、高慢なんだろうとびっくりするんじゃないでしょうか。謙遜ぶっているようで、この人は自慢できることを指折り数えているのではないかと思ってしまいます。
ところが彼はこうも言っているのです。
11:30もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。
12:5…私自身については、弱さ以外には誇りません。
どうやら私たちがイメージする「誇り」「自慢」「プライド」とは話が違うようです。パウロの誇りは、自己顕示ではありませんでした。彼が自分が誇ることを通して伝えたかったのは、自分の弱さを通して働いておられる神だったのです。彼は神の恵みを証しするために「誇り」ました。
Ⅱコリント12:9,10「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。‥‥私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
と語っているとおりです。
◆十字架が誇り
また、パウロがガラテヤにある諸教会に宛てた手紙では
ガラテヤ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。…」とあります。
彼が誇りたかったのは、自分の弱さであり、イエス・キリストの十字架でした。自分の弱さのために十字架にかかって身代わりの死を遂げた主イエスを彼は指し示しているのです。
とはいえ、弱さ同様、十字架は当時の人々にとっては死刑の道具ですから自慢するものでは決してありません。むしろ目をそむけたくなるものです。今はキリスト教のシンボルということも忘れられているようなところがあり、ただのお守りやアクセサリーのように思われているかもしれませんが、元は古代ローマで考えられた極刑の方法でした。刑罰の一つとは言え、残酷な死刑方法でした。
けれどもパウロはそれこそが誇りだと言い切ります。イエス・キリストがかかられた十字架こそが誇りなのです。
あなたは自分の弱さに直面していますか。自分には知恵も力も富もないとがっかりしておられるでしょうか。いいのです。私たちにはイエス・キリストの十字架があるのです。何もない私たちのために十字架にかかってくださった主の愛は、決してあなたから取り去られることはありません。
また、自分の知恵や力や富を誇っておられた方々。それはいつか変わっていくものです。どれほどの学位を持っていても、それがずっとあなたの生活の役に立つわけではありません。自分の記憶力が弱ってきていることを実感している私は、痛感しています。力を持っている人たちが世界で暴れていますが、それもずっと続くわけではありません。大きな富を手にしても、失うこともあります。
私たちはこの言葉を胸に刻みたいです。最初のみことばに戻りましょう。
エレミヤ9:24「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。…」
この箇所、訳によって少しニュアンスが違うようです。新共同訳では「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」となっていて、後半のニュアンスが少し違うように思います。この地に慈しみと正義と恵みの業を行うのが主なのか、私たちなのか…という違いです。
いずれにせよ、私たちが誇るべきなのは自分ではなく、また、自分の持ちものではなく「主を知る」ことです。
皆さんは神を知っています。単に、神が天地を造り、すべてを支配し、すべてを裁かれる王の王、主の主であると知っているだけではありません。こんなに小さく、弱く、罪人に過ぎない私たちに目を留め、徹底的に愛し、赦し、尊く用いてくださる、そして永遠の御国へと導いてくださる方だと知っています。
もし、まだよく分からないという方がいらっしゃるなら、どうか聖書のみことばを通し、教会の交わりを通して神を知っていってください。もちろん、神は教会の中にだけおられる方ではないので、世界を見渡せば出会います。知ることができます。どうぞあなたの日常も神の御手の中にあることを覚えて、恵みであふれていることに気づいてください。恵みを数え、味わい、そのことを誇る者でありましょう。



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