キリストのからだの一部分として
「キリストのからだの一部分として」
聖書朗読▼Ⅰコリント12:12、13~18、24~27
12.ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
14.実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
15.たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
16.たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
17.もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
18.しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
・・・・・
24.…神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
25.それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
26.一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27.あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
序
おはようございます。いかがお過ごしでしょうか。
私は、お祈りいただいていたキャンプを二つ終えてきました。高校生のための3泊4日と4泊5日のhi-b.a.キャンプです。北は北海道、南は鹿児島からも高校生が参加してくれました。
我剛結束了兩個大家一直為之代禱的營會。這是高中生的 hi-b.a. 營會,分別歷時「3晚4天」和「4晚5天」。參加的高中生來自各地,北至北海道,南至鹿兒島。
初日は緊張していた彼らもプログラムが進むにつれ、自分らしさが出てくるようになります。力いっぱい賛美をし、真剣にみことばに耳を傾け、友と語り合い、笑い合っていました。
起初有些緊張的他們,隨著活動的進行,逐漸展現了真實的自我。他們全心全意地讚美,聚精會神地聆聽神的話語,與朋友交談、歡笑。
最終日には「誰か、私の携帯を壊して!」と言う子が何人も現れたのが面白かったです。その意味は「スマホ漬けになる生活にもう戻りたくない!」ということです。キャンプ中は携帯電話を預かってしまうので、彼らはデジタルデトックス状態になります。
有趣的是,在最後一天,有好幾個孩子喊道:「誰來把我的手機弄壞吧!」這話的意思是:「我再也不想回到那種沉迷於智慧型手機的生活了!」由於在露營期間手機會被統一保管,他們實際上處於一種「數位排毒」的狀態。
対面の人間関係の中で、神様と交わる数日間を過ごすので、人間のもともとの状態に近くなり、電子機器から自由にされる開放感を味わったということなのでしょう。
在面對面的人際互動中度過與神相交的數日,讓人得以回歸接近人類本真的狀態,想必正是這種從電子設備中解脫出來的感覺,帶來了一種釋放感。
高校生たちがプログラムを楽しんでいる陰には、たくさんのことを担う奉仕者たちの姿がありました。誰よりも早起きをし、早天祈祷会のセッティングに備える奉仕者、重い水を運んでゲームの準備をする奉仕者、寝不足になりながら、
在享受活動的高中生身後,是默默付出的志工們。他們承擔著許多工作。有些人比任何人都起得早,為清晨的祈禱會做準備;有些人扛著沉重的水瓶,為比賽做準備;還有一些人,儘管睡眠不足,仍然堅持工作。
高校生の話に耳を傾ける奉仕者、涙を流しながら証しをする奉仕者やスタッフ…そのような仲間たちと一緒に奉仕できたことは私にとっても励ましでした。心から感謝します。
有傾聽高中生心聲的志願者,也有流著淚分享見證的志願者與工作人員……能與這樣的伙伴們一同服事,對我而言也是一種極大的鼓舞。衷心感謝。
明後日からは長野で行われる別のキャンプで奉仕をしてきます。初めての場所、初めての人たちの中で5回のメッセージを取り次ぎます。どうぞお祈りください。
後天起,我將前往長野參加另一個營會並進行服事。我將在一個全新的地點、面對一群初次見面的人,分享五次資訊。請為此代禱。
本
さて、今日の聖書箇所は、パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の一部です。ですから、この中で「あなたがたは」と言われている人たちは、「教会の人たち」と言うことができます。
那麼,今天的經文出自保羅寫給哥林多教會的書信。因此,其中提到的“你們”,指的是“教會的會眾”。
パウロが書いた別の手紙では、よりはっきりと教会を「キリストのからだ」と表現しています。
保羅在另一封書信中,更明確地將教會描述為「基督的身體」。
エペソ1:23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
以弗所書 1:23 教會是基督的身體,是那位充滿萬有者所充滿的。
それは、社会や家族を、それぞれの役割ごとに構成されていると考えるのとは違います。前の22節にあるようにキリストがかしらとなっているからだなのです。パウロは見事に、教会をからだにたとえて私たちの存在と役割を教えてくれています。
這與將社會或家庭僅視為由各種不同角色構成是不同的。如前文第22節所述,這是因為基督是「頭」。保羅巧妙地以「身體」來比喻教會,以此向我們闡明了我們的存在與角色。
①様々な器官
v.18-19 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
①各種各樣的器官
v.18-19 但實際上,神是照著自己的旨意,將各個部位安置在身體裡的。如果全體只是一個部分,那麼身體又在哪裡呢?
ローマ12:3-5 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
羅馬書 12:3-5 我憑著所賜給我的恩典,對你們每一個人說:不要自視過高,超過當有的限度;倒要照著神分給各人的信心大小,看得合乎中道。
一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
就像人體有許多器官,並非所有器官都執行相同的功能一樣,
大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
我們雖然人多,但在基督裡卻是一個身體,每個人都是彼此的肢體。
a.一人ひとり違う器官として存在している
みことばは言います。からだには「それぞれの部分」「多くの器官」があると。それはそうです。隣に座っている人を見て、目ばっかりのカラダだったら怖いです。
a. 每個人都以獨特的肢體而存在
聖經的話語告訴我們:身體上有「各自的部位」和「許多肢體」。確實如此。試想坐在身邊的人,如果身體上全都是眼睛,那該多可怕。
やたら手がいっぱいついているカラダということもありません。様々な、異なる器官があって、良いのです!
身體也並非長滿了密密麻麻的手。擁有各種各樣的不同器官,這很好!
でも、違うがゆえに起こる摩擦があります。
不過,也存在著因差異而產生的摩擦。
・違うので、他の人の方が良く見えることもあるでしょう。”隣の芝生は青く見える”と言われるように、違うから比べてしまってうらやましく思い、それが妬みや競争に発展することもあるのです。
・正因為彼此不同,有時難免會覺得別人看起來更出色。正如俗話所說“鄰家的草坪總是更綠”,這種差異往往會引發比較與羨慕,甚至演變成嫉妒或競爭。
・違うので、他の人を受け入れがたく、辛くなることもあるでしょう。私たちは、職場で、学校で、結婚生活で、相手を受け入れる難しさを感じる事があるのではないでしょうか。
・正因為彼此不同,有時可能會難以接納他人,甚至感到痛苦。無論是在職場、學校或婚姻生活中,我們或許都曾體會接納他人的不易。
それは教会内においても同じです。心の余裕がある時は、気にならないことでも切羽詰まっていたり、疲れていたりすると、嫌悪感を覚えたり、イラついてしまう事があります。
在教會裡也是如此。當內心從容時,原本不會在意的事情,一旦處於窘迫或疲憊的狀態,就可能會讓人產生厭惡感或感到煩躁。
b.神のみこころによって備えられた
ところがその違いは、神様が作られたということが言われています。
b. 藉著神的旨意所預備的
然而,其間的差別在於,這是由神所造的。
v.18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
v.18 但實際上,神照著自己的旨意,將各個肢體安置在身體裡。
v.11 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。
11 這一切都是由同一位聖靈所行的,祂隨自己的旨意,將恩賜分給各人。
v.6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。
v.6 恩賜各有不同,但同一位神在所有人裡面,行使一切作為。
他の人がうらやましくても、また、逆に受け入れにくいとしても、そのお互いは、神様がご計画をもって備えられたものだと言うのです。神の「みこころにしたがって」ということは、神様の意図がそこにあり、その存在には意味があるということです。
無論那是令人羨慕的,還是難以接受的,這一切都是神懷著特定的計劃所預備的。所謂“順服神的旨意”,就是指其中蘊含著神的意圖,而其存在本身也具有意義。
私たちがクリスチャンとして、生き生きと喜びにあふれて歩む秘訣は、すべてのことを神様の視点で捕らえる、つまり、信仰の目で見て行くと言うことだと思います。もちろん、私たちは神ではないので、本当には理解できない、納得できないかもしれません。
我認為,我們身為基督徒能夠充滿活力與喜樂地前進的秘訣,在於從神的視角去把握一切──也就是說,要用信心的眼光去看待事物。當然,我們畢竟不是神,或許無法真正理解或完全想通其中的緣由。
社会に起こっていること、世界の動きは、愛の神様がいるならどうしてこんなことが起こるんだろう?こんなにも世界各地でささげられている祈りがあるのにきかれていないんだろう?と感じることがたくさんあるかもしれません。「教会」なのに、なぜ…!?と思うことも起こるかもしれません。
面對社會上發生的事和世界的動向,我們或許常常感到困惑:如果真有充滿愛的主宰,為何會發生這種事?儘管世界各地有無數的祈禱,為何似乎未被回應?甚至在「教會」裡,也可能發生令人不禁質疑「為何會這樣…」的事情。
でも、どんな小さなものにも意味があり、神様の許しがなければ存在できないのです。(ex.指紋:小さくて目立たないけれど、物を持つためには重要な役割を果たす)神様のみこころ(意思、計画)があることを覚えましょう。
然而,即使是再微小的事物也有其意義,若沒有神的許可,便無法存在。 (例如指紋:雖小且不起眼,但在抓握物體時卻發揮著重要作用)讓我們銘記,這一切都有神的心意(旨意與計劃)。
②ひとつのからだとして調和する
そんな違いのある教会ですが、私たちは「ひとつのからだ」として調和する必要があります。
②作為「一個身體」和諧共處
儘管教會存在著種種差異,但我們仍需作為「一個身體」和諧共處。
v.12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
v.12 就如身體雖是一個,卻有許多肢體;身體的肢體雖多,仍是一個身體;基督也是這樣。
v.20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
v.20 但實際上,肢體雖多,身體卻只有一個。
v.24 …神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
v.24 ……神把體面加給那不體面的部分,把身體組合在了一起。
(新改訳第三版:…神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。)
(新改譯第三版:……神刻意看重那些較弱的肢體,使身體這樣和諧地結合在一起。)
「調和」というのは、異なる要素が対立したりしないでバランスよくまとまり、全体のつり合いが取れている状態です。音楽や芸術でも、人間関係や社会でも、自然環境でも、大切にされている状態だと思います。
所謂“調和”,是指不同的要素之間不發生衝突,而是保持良好的平衡並融為一體,使整體處於一種均衡的狀態。無論是在音樂與藝術、人際關係與社會,或是自然環境中,我認為這都是一種備受珍視的狀態。
調和が取れていないと、違和感や不快感が生まれ、衝突が起きたりしてうまく機能しなくなります。
如果缺乏協調,就會產生違和感或不適感,甚至引發衝突,導致無法正常運作。
では、どうやって調和するのでしょう?
那麼,該如何實現和諧呢?
v.25 それは、からだの部分に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮しあうためです。
v.25 這是為了使身體各部位之間沒有分裂,各部位能同樣地彼此關顧。
v.26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
v.26 若一個肢體受苦,所有的肢體就一同受苦;若一個肢體得榮耀,所有的肢體就一同快樂。
配慮し合い、ともに生きるということです。ともに苦しみ、ともに喜ぶということです。このことが教会の中で、私たちの間で実践されているでしょうか。
這意味著彼此體諒、共同生活;意味著同甘共苦、同喜同樂。在教會裡,在我們之間,這一點是否被實踐了?
皆さんは、隣の人の苦しみや喜びを知っているでしょうか。もちろん、近しい人ならある程度は知っているでしょう。でも、もうちょっと離れた人のことはどうでしょうか。
大家了解身邊人的痛苦與喜悅嗎?當然,如果是親近的人,想必多少是了解的。但是,對於那些關係稍遠的人呢?
礼拝に来てすぐに帰ってしまう人の喜びや葛藤を知っているでしょうか。これは、噂好きで人の家のことに変に首を突っ込むことを指しません。
您是否了解那些參加完禮拜便匆匆離去的人內心的喜悅與掙扎?這並非指那種喜歡搬弄是非、對他人家事指手畫腳的行為。
でも、私たち人間は、放っておいたら自然に補い合うわけではないのです。カラダの方がよっぽど見事です。
不過,我們人類若聽之任之,並不會自然地互相彌補。相比之下,身體的表現要出色得多。
ex.) カラダの一部の具合が悪いとき、他の部分がその働きを補う現象が起きます。機能を肩代わりするのです。カラダは全体のバランスを保つために無意識に仕組みを調整するのです。例えば、足や腰が痛むとき、痛みを避けるために、別の筋肉や反対側の足が代わりに力を負担します。
例如,當身體某部位出現不適時,會發生由其他部位來彌補其功能的現象,即由其他部位代為承擔相應機能。為了維持整體平衡,身體會無意識地調節自身的運作機制。舉例來說,當腿部或腰部疼痛時,為了避免疼痛,身體會調動其他肌肉或另一側的腿來分擔受力。
歯痛の時は反対側で噛むとか、目が不自由な人は聴力が強くなるとか、片方の腎臓が悪くなるともう片方の腎臓が大きくなって働きを強めるとかいろいろなことがからだの中で起こります。
人體內會發生各種各樣的變化,例如牙痛時會用另一側咀嚼,視力不佳者聽力會增強,或者當一側腎臟功能受損時,另一側腎臟會增大並增強其功能。
パウロはローマ12:15でこう書いています。
保羅在羅馬書12章15節這樣寫道:
喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。
與喜樂的人同樂,與哀哭的人同哭。
喜びや悲しみは伝染するように思います。
我覺得喜悅與悲傷是會傳染的。
キャンプでは、そんな場面をいくつも見ました。踊りながら、手をたたきながら賛美する男子たちに、女子たちも巻き込まれていく様子。
在露營期間,我多次目睹了這樣的場景:男生們邊跳舞、邊拍手地讚美,女生們也隨之被帶動、融入其中。
初めはだいぶ引いた様子だったのに、一緒に踊りはしないけど、踊っている男子を見ながら笑顔で賛美をささげる子たち。また、神様のみわざを思い出して涙しながら証しする奉仕者にもらい泣きする子たち。
起初她們似乎有些退縮,雖然沒有一起跳舞,卻面帶笑容,注視著跳舞的男生並獻上讚美;還有些孩子,看到有服事者因回想神的作為而流淚作見證,也深受感動,跟著落淚。
ただ、ともに苦しむよりともに喜ぶ方が難しいと言えるかもしれません。個人差はありますが、苦しみや悲しみは同情しやすいです。でも喜びは、そこに妬みなどが生まれてきやすいのです。笑顔の陰で、比較や嫉妬が生まれてきたりするのです。
不過,或許可以說,相較於共同分擔痛苦,共同分享喜悅反而更難。儘管因人而異,人們往往容易對痛苦或悲傷產生同情;而面對喜悅時,卻容易滋生嫉妒等情緒。在笑容的背後,往往會產生攀比或嫉妒之心。
では、どうしたらいいのでしょうか。
那麼,該怎麼辦呢?
ローマ15:2-3
私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。…
羅馬書 15:2-3
我們各人應當設法取悅鄰舍,以促進靈性的成長。基督也沒有求自己的喜悅…
キリストのお姿を思い出すと言うことです。
意思就是回想基督的形象。
私たちの内には、もともと、人を愛する愛も、ともに苦しむ勇気もありません。愛するよりも愛されることを求め、苦しみからは一刻も早く逃げたいと思うものです。
我們的內心原本既沒有愛人的愛,也沒有與人共擔苦難的勇氣。我們往往渴求被愛勝過愛人,並且總是想盡快逃離苦難。
愛の源である神様からいただくことなくして、人を愛することはできません。自分を犠牲にして他の人の益を図ることなど到底無理です。
若不從作為愛之源頭的神那裡領受,便無法愛人;想要犧牲自己去謀求他人的益處,更是絕無可能。
でも主は、ご自分に罪はないのに、十字架にかかることで、私たちを贖ってくださいました。このお方を見ることです。イエス様を見上げて、イエス様の歩みに倣う事が、教会がキリストのからだの各部分として整っていくことに繋がるのです。
然而,主雖然自己沒有罪,卻藉著被釘在十字架上救贖了我們。我們要注視這位主。仰望耶穌並效法祂的腳蹤,這正是教會作為基督身體的各個肢體,得以被建立與完善的關鍵。
パウロが教会を「キリストのからだ」としてたとえたのは、本当に見事です。たくさんの違いや摩擦はあれど、私たちには希望があります。キリストにつながっていることで整えられていくからです。
保羅將教會比喻為“基督的身體”,這實在是非常精妙。儘管有種種差異與摩擦,我們仍懷抱著希望;因為藉著與基督的連結,我們正不斷地被塑造與完成。
結び
・ご自分がキリストに繋がっているかを点検し、
結論
• 檢視你是否與基督有聯繫,
・心の内にある、人をさばく思い、ねたむ思いを十字架につけ、
- 將你心中那些愛評斷他人與充滿嫉妒的念頭釘死在十字架上。
・あなたの助けや励ましを必要とする人に思いを巡らせ、
想想那些需要你的幫助或鼓勵的人,
・主が許してくださるなら、具体的に行動を起こすことができますように
・若蒙主允許,願能採取具體的行動。



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