互いに愛し合うべき!?
「互いに愛し合うべき!?」
聖書朗読▼1ヨハネ3:11、16-20
11.互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。
16.キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
17.この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
18.子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
19.そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
20.たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。
序
おはようございます。6月の第二日曜日は、教会のカレンダーでは「花の日」と言われ、教会学校の生徒たちが花を持って、病院や交番や消防署などを訪ね、お見舞いをしたり、労をねぎらったりして、神様の愛を証しする行事が行われます。私が小さいころは、6月の教会の行事として行われていました。最近はあまり聞かないかもしれません。
これは1856年にアメリカのキリスト教会が子どもたちのための特別礼拝を行ったことが始まりだそうです。花や人などすべてのいのちを与えてくださった神様に感謝し、またお世話になっている人たちに感謝と愛を伝えるという意味があるようです。
本
◆ありがとう!?
私たちが感謝を伝えるときによく使われるのが、「ありがとう」という言葉です。漢字で書くと「有難う」となるように、もともとは「めったにないこと」「貴重なこと」を指す言葉でした。相手が自分にしてくれたことは「当たり前ではない、尊いこと」と捕らえて、使われたということです。
もちろん、言い方によってイメージは変わりますが、この意味を考えながら「ありがとう」を言うと、心がこもって、とても暖かい気持ちになるような気がします。言われる方も、なんだか嬉しくなります。
ということで、皆さん、今朝、隣に座っておられる方に「今日も来てくれてありがとう」と言ってみてください。
なんだか照れくさい感じもありますが、嬉しいと思いませんか?日本語の「ありがとう」は人間関係を円滑にする美しい言葉なのだと思います。
皆さん、今日もここに集ってくださってありがとうございます。あなたが今ここにいることは当たり前ではありません。本当に尊いこと、感謝すべきことなのです。そして、あなたの隣にいる人、あなたの家族、あなたの仕事関係の人、友人たちも同じように、尊く、感謝に値する存在です。
◆ありがとうを言いがたい人たちにも
ところが世界には、そんな「ありがとう」を言いづらい相手もいます。「自分ファースト」で、人を傷つけ、騙し、何とも思っていないような人たちもいます。自分こそ被害者で、周り全部が敵!と思っているような人たちもいます。そんな人たちにもありがとうを言えるのか?聖書は「互いに愛し合うべき」と言っているんだから、向こうが愛してこないのにこちらが愛することなどする必要があるのか?—―そんな疑問も浮かんできます。これはヨハネがクリスチャンに向けて書いた手紙なのだから、クリスチャン同士で愛し合えばいいのではないかと言う人もおられるかもしれません。
しかし、互いに愛し合うことをヨハネは「あなたがたが初めから聞いている使信(教え)」と言っているのです。初めとは、いつでしょう?
ヨハネ13:34,35「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」
ヨハネ15:12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
そう。主イエスが何度も「戒め(掟)」として語っておられたのです。この時は最後の晩餐の席でしたから、イエス様はそこにいた弟子たちに向けて「互いに愛し合うように」と命じたのです。つまりこの戒めは直接的には、イエス様に呼び出され、同じチームメイトとして生活していた弟子たちに対することばでした。
イエス様の近くで過ごしていた弟子たちの間でも「互いに愛すること」は難しかったのです。しょっちゅうイエス様の話を聞き、でも難しくてよく分からない時は掘り下げる質問をして解答を得、イエス様の行動を間近で見てきた彼らであっても、言われ続ける必要がありました。
私たちも同じです。「ありがとう」と感謝を伝えることの大切さを分かっていても、後回しにしてしまうことがあります。言わなくても伝わっているだろうと思い込んでしまうことがあります。また、感謝を伝えることと、愛しあうことは別のことだろう!とおっしゃる方もいるでしょう。 そこで、今日のみことばを書き記したヨハネに注目したいと思います。
◆お手本はイエス様
聖書には何人かのヨハネが出てきますが、今日の手紙を書いたヨハネは「愛の使徒」と言われます。その理由は、彼は自分のことを著書の中で「イエスが愛しておられた弟子」(13:23,19:26,21:7,20) と表現し、手紙の中では何度も何度も愛について語っているからです。
といっても、彼は以前、兄ヤコブと一緒に「雷の子」というニックネームをつけられるような人でした。どうやら、短気で偏狭で、野心に満ちた人だったようです。
聖書を見ると、その様子が分かるストーリーがいくつかあります。例えば、イエス様のエルサレム行きを歓迎しなかったサマリヤ人に対して、この二人の兄弟は「私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と怒りを表しました。かなり強烈なことを言うと思いませんか。この時イエス様は「振り向いて、二人を叱られた」(ルカ9:51-56)のです。
また「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについてこなかったからです。」(マルコ9:38)と言った時は、イエス様に「やめさせてはいけません」と言われてしまいました。
さらにこの兄弟は、イエス様に対して「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」(マルコ10:37)と言って他の弟子たちを出し抜いて栄誉ある位を求めたのです。
こんな人があなたの近くにいたらどう思いますか。彼らのしたこと、言ったことは愛のない、自己中心的なわがままな心の現れだったと思います。
しかし彼は変わりました。Ⅰヨハネ3:16をもう一度読みましょう。
「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。」
ヨハネは分かったのです。「愛」が何なのか。本当の愛はどういうものなのか…。イエス様がおっしゃる「わたしがあなたがたを愛したように」の模範、お手本を見たからです。あの十字架上でぼろぼろの肉体をさらけ出して死なれたお姿を見て。また最後の晩餐の時、目の前でひざまずいて自分たちの足を洗ってくださったのを見て。彼はそれで「愛が分かった」のです。
◆具体的な1歩を!
イエス・キリストが表わされた愛を、私たちも知っています。十字架で尊い犠牲が払われたことを真実だと受けとめ、信じて歩んでおられる方はここに多くいらっしゃるでしょう。でも今日は、それをあらためて「私(たち)のため」だったと確認して、次の1歩を考えましょう。
それは「ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛」するということです。年を重ねると、教会生活が長くなると、私たちは心が伴わなくても上手に取り繕うことができるようになります。それは、成長したね、オトナになったねと褒められるようなことではありません。
口先だけでなく、行いと真実をもって愛することは、主イエスの模範に従うことです。イエス様は、神の愛を説いただけではなく、人々にさげすまれていた人のところに足を運び、汚らわしいとされて肉体も心もぼろぼろに痛んでいた人に触れて癒し、大人たちに邪魔者扱いされた子どもたちを呼び寄せて祝福しました。それはそれは人々を驚かせ、感動させ、感謝されたでしょう。
けれども最後の最後、人々に背を向けられ、唾を吐きかけられ、鞭うたれ、十字架にかけられました。私たちすべての人の罪を贖うために、です。
イエス様は愛を表わされましたが、誰もその時「イエス様ありがとう!」なんて感謝を表わすことはしませんでした。むしろ、目を背け、逃げ、イエス様との関係を否定し、隠したのです。
イエス様はおっしゃいます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」
たとえ人に評価されなくても、ありがたがられなくても、報われなくても、イエス様の愛に倣うものでありましょう。
・・・どうやって?それを皆さんのフィールドで考える必要があります。
◆まとめ
私たちが、主イエスに倣って生きるとき、人と関わる時、誠実に働く時、その場所—―家庭、職場、学校に「神様が喜ばれる世界」が小さく広がります。あなたが家族を愛する姿は、家庭で傷ついているこの世界に「神を信じる家族の希望」を届けることになります。
私たちは、救われ、なおもこの地に生かされています。その理由は何でしょうか。主イエスが身代わりとなって十字架にかかるほどに救い出したかった私たちは、なぜ今ここにいるのでしょうか。
それは、神様との関係を回復して生きる私たちが、これからはこの世界に仕えるという使命なのです。なぜなら神様は、罪にまみれたこの世界を見捨てず、救おうとしておられるからです。
あなた自身が、失敗や後悔の多い毎日を送っていたとしても、迷い、揺れ動きながら歩む信仰生活であったとしても、神様から日々愛を受け、愛することを教えていただきながら1歩ずつ歩んでいるあなたの存在は、この世界の中で大きな意味がある。尊い価値があるのです。
とはいえ、私たちの生活は、神様から、また、神様が与えてくださった使命から、目をそらさせるものにあふれています。目をそらした私たちはぐらつくし、下手したら倒れて起き上がれなくなることもあります。だからこそ、神様がおっしゃることばに耳を傾けてください。
「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」Gen.2:18
これは何も結婚式で読まれるためのみことばではありません。男女の優位性を説明するみことばでもありません。
この箇所の後、創世記3章で、人が罪を犯し、神様との関係が壊れる話が出てきます。けれども、そうなる前から神様は「人と人とが交わりに生きること」を願っておられました。人は一人で孤独に生きるように造られたのではありません。交わりに生きることが、神様の計画にあったのです。
ですから、私たちは主を信じ、救われても、一人で信仰生活を送りません。仙人とか世捨て人のように生きることを神様は願っておられず、私たちに隣人を与え、教会に導いてくださいました。
私たちの周りには様々な隣人がいます。神様を、イエス・キリストの十字架で表わされた愛を知らない人たちが大勢います。
そして、私たちは日曜日にここに集まり、礼拝でみことばを聴き、賛美し、祈り合いながら、神様から与えられた使命に生きることを励まし合います。
どうかまずここで、そして1歩教会を出たらその場所で、「行いと真実をもって愛する」歩みをしてください。17節では財を持っている人にチャレンジを与えます。しかし、お金を持っていない人は愛さなくていいわけはありません。主に愛されている人すべてに与えられているチャレンジです。
私たちが生きる世界は暗闇です。どんどん闇が暗くなっていると思います。でも、光である主がともにいてくださるので、私たちは安心して歩み、ことばや口先だけでなく愛することができるのです。
最後にカトリックの聖人アッシジのフランシスコが唱えた平和の祈りを読んで終わります。
神よ、私をあなたの平和のために用いてください。
憎しみのあるところに愛を
争いのあるところに和解を
分裂のあるところに一致を
疑いのあるところに真実を
誤りのあるところに真理を
絶望のあるところに希望を
悲しみのあるところに喜びを
暗闇のあるところに光をもたらすことができるように 助け導いてください。
神よ、私に慰められることよりも 慰めることを
理解されることよりも 理解することを
愛されるよりも 愛することを望ませてください。
私たちは与えることによって与えられ
すすんでゆるすことによってゆるされ
人のために死ぬことによって永遠に生きることができるからです。



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