神の安息への招き
- 2025年9月16日
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「神の安息への招き」
イザヤ56:1~7、57:15
1 主はこう言われる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも。」
2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。
3 主に連なる異国の民は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
4 なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全勝のささげ者やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。
序
おはようございます。このようにして週の初めの日、私たちがこのように教会に集まって主を礼拝できるのは大きな恵みです。しかし、時に私たちにとってここに足を運ぶことを難しく感じることがあるかもしれません。主の日。安息日。今日の中心は、この世界のすべてを創り、治めておられる聖書の神を覚えることです。
多くの人はこの聖書の神様を覚えること、自分の生活に入っていただく必要があることを認めることができません。世の波に飲み込まれて、自分を主のみことばで照らすことをしようとしません。私たちは、日々の忙しさから離れて、主の前にただ静まる時を持つ必要があります。
1.「わたしの安息日を守る人は幸い」(v.4)
56章は主ご自身の宣言から始まります。(v.1)「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現われるのも。」
神の救いや神の義が現れる…だからこそ私たちはその希望を胸に確信をもって「公正を守り、正義を行う」のです。その上で、(v.2)「幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。」 と記されています。安息日を大切にする人は幸いなのです!
安息日はヘブル語で「シャバットー止める」という意味があります。神様が世界を創造されたとき、7日目に休まれたように、私たちも自分のしていることを一度やめるのです。仕事や勉強で働いていた体や頭をいったん止め、心を神様に向けて休む。それが安息日を守るということです。
一方で、「安息日を汚す」というのは「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ……あなたはいかなる仕事もしてはならない」(出エジ20:8、10) という主のご命令への違反です。ということなので「悪事」とは、労働する、あるいは労働させることと言えるかもしれません。
労働自体が「悪事」になるとは驚きです。私たちは働くことが美徳ととられる社会に生きているし、労働はこの社会を動かす大切なものなので「悪事」とは違和感を感じるし、ちょっと言い過ぎじゃないのと言われるかもしれません。でも、何が良くて何が悪いかを決めるのは、神様であって、社会常識ではないのです。ただ私たちは既に、仕事を休むことは悪と考える社会に深く組み込まれています。ですから個人的な決心だけで安息日を完全に守ることはできません。それぞれの置かれている環境でどうにもならないということはあるでしょう。
ですから、このみことばを使って、安息日を守れない人を責めてはなりません。礼拝に来ていても心が伴わなかったり、形式だけ、あるいは単なる習慣としてそこにいるだけだったら、神様はどうご覧になるでしょう。
この安息日を覚えよという律法は、社会の構造を、神様の視点から作り直すということにあります。週に一日、すべての人を労働の義務から解放することが、ユニークな聖書の教えです。別の視点で言えば、雇用主は、労働者が7日の内1日休んでも生活できる給与を支給する義務があるということでもあります。つまり”安息日律法”は、社会的弱者を際限ない労働に駆り立てることを防ぎ、社会のすべての人が、共に豊かさを分かち合い、喜ぶことができるという枠組みと言えます。
ところで、不思議なのはここで突然、「主に連なる異国の民」とともに「ああ、私は枯れ木だ」と嘆く「宦官」に対する慰めの招きが記されます(56:3)。「宦官」はこのイザヤ書と深い関係にあるペルシア帝国において政治制度として確立していました。宦官はもともと、後宮に仕えるために去勢した人たちですが、跡継ぎの子を設けることができないので、後継者争いが激しい王族や貴族にとっては脅威ではなくなり、世襲されることのない高級官僚として重用されるようになりました。
一方、割礼の儀式を何よりも大切にするユダヤ人の感覚からしたら、去勢された宦官が神の民に加えられるなどということは到底信じられないことでした。申命記23:1にもそのような「…者は主の集会に加わってはならない」とある通りです。
ところが、続く23:3にも「…モアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して主の集会に加わることはできない。」とあり、はっきりと命じられていたにも関わらず、後にモアブの娘ルツが神の民に加えられ、その4代目の子孫にダビデが生まれてイスラエルの王になったということがあります。そこから、この排除の原理が一時的なものに過ぎなかったということが分かります。
そしてこの「宦官」が主の民に加えられるという不思議が記されます。(56:4、5) 「…主がこう言われるからだ。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える』」
「宦官」は、息子や娘を持つことはできませんが、それにもまさる「記念の名、永遠の名」という名誉が与えられるというのです。これは宦官にとって喜びの知らせであるとともに、当時の社会を根本から変える希望でした。ここでも神様の契約の中心として「安息日を守る」ことが記されます。
神の民からは永遠に排除されていると思われた「宦官」さえ、「安息日を守る」ことによって永遠の祝福に与ることができるのです。あなたの周りにいて社会的な立場があっても認められていないような人をも、神は救いに招いておられます。
2.「わたしの家はあらゆる民の祈りの家」
続く56:6は主に連なった「異国の民」について語られます。彼らは「主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった」人であり、「安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つ」人々です。そのような異国の民に「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(56:7)と言ってくださる神様。 血筋を重んじていたユダヤ人たちからすると驚きのことばです。当時、いけにえを捧げる祭壇に近づけるのはイスラエルの成人男性だけだったのに、異国の民や宦官たちがささげる捧げものやいけにえを主は受け入れて下さると言っているのです。
「なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(v.7)
この宣言こそ、後にイエス様が宮清めの理由として引用されたことばです。(マルコ11:17)前の節を見ると、イエス様は宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒されました。確かに神殿内での取引を許す制度は合理的な意味がありました。例えば当時の一般通貨はローマ皇帝の肖像が描かれていたので、献金のためには両替する必要がありました。また神殿内部で売られていた動物は「いけにえ」として不合格にされる心配はありませんでした。
けれども主を礼拝しに来た異邦人は、この利便性の影で、静かな礼拝の場を奪われたのです。同時に祭司たちはこの商売の認可を許可するにあたって収入も得ていました。
問題は、神殿での商売や取引ではなく、自分たちとは異なるカルチャーの人々にも神をあがめるにふさわしい礼拝の場を提供しているかということなのです。
たとえば使徒の働き8章に、エチオピアの女王の財産を管理していた「宦官」がエルサレムに礼拝に来たことが描かれますが、当時の規定では、彼がどれほど長い時間と労力をかけてやってきたとしても、入れるのは、神殿の一部、外庭までです。彼は自分のささげ物が祭壇で焼かれた煙を、壁の外から見るしかありませんでした。しかも、彼が立っている外庭には、鳩を売る者、牛や羊を売る者たちが座り(ヨハネ2:14)、両替人が大声で客を呼び寄せてにぎやかだったことでしょう。
一方でユダヤ人たちはエチオピア人の「宦官」を外見で軽蔑しながら、そのへりくだりの信仰を見ることもなく、お金を取ることばかり考えていました。
後の時代にイエス様が神殿の中を歩まれた時も、敬虔な心を持つ外国人や障害がある人たちや幼い子どもたちが、礼拝の場から排除されているのをご覧になって心を痛められたに違いありません。
そのような中でイエスは、神殿の外庭に礼拝の静寂を取り戻すために、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」と言われたのです。
ところでマタイ21:14は、宮清めの直後「宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒された。」と新しい展開を描きます。それは、イエス様がこの世の利便性を排除した時、社会からは軽んじられていた人々が前面に出て来ることができた様子です。彼らは癒されました。神殿が、弱者を排除する場所から、癒しを受ける場所へと変わったのです。
それからもう一つ。大きな変化が起こりました。それは宮の中で子どもたちの「ダビデの子にホサナ」という賛美が響き渡ったことです。(マタイ21:15) 子どもたちは時に、大きな声で場の静寂をかき消すことがあります。私は以前幼稚園の教諭をしていたので子どものにぎやかさは慣れたBGMでした。でも、今は高校生伝道をしていて長くなり、子どもがいない夫婦だけの家庭で割と静かに過ごしているので、電車やレストランで小さな子が奇声を上げたり泣き叫ぶ場面に遭遇すると、心がざわつく感じを覚えてしまいます。キャンプで高校生たちがテンション高く叫んでいるところに居合わせて圧倒されることもあります。
私たち大人は、また教会は、子どもたちや若い人たちをどのように受け入れてきたでしょうか。お行儀よく教会のベンチに座っていることが必ずしも良いことではないでしょう。子どもたちの、子どもたちらしい神様への賛美があることを覚え、受け止めたいです。決して腹を立てたり、追い出すようなことがあってはなりません。
3.「わたしの住むところは」
57:1-2「義人は滅びるが、心に留める者はいない。誠実な人は取り去られるが、気づく者はいない。義人は、わざわいを前にして取り去られる。その人は平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」
これは、「義人」や「誠実な人」は、しばしばこの世界で人に認められることがなくても、神様が最終的な平安に導いてくださるという約束です。今、どれほど良いことをしたとしても報われないなら意味がないと思いますか。たとえあなたの善い行いが誰の目に留まらなかったとしても、神様はちゃんと見ていてくださいます。
主は57:13で「しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。」という希望を語ってくださいました。この世でどれほど困難な目に会い、虐げられても、主に身を避ける者は、主に頼る者はやがて目に見える祝福を体験できるというのです。
その上で、こうも語っておられます。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」(57:15)
神様が目を留められるのは、みんなに尊敬され、能力が高く、信仰深く謙遜に見える人ではありません。むしろ砕かれて自分の惨めさや弱さに本当に打ちひしがれている人です。この世の価値観とはだいぶ異なるわけです。イエス様も、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3) と言われました。不思議な言葉ですが、自分の心の貧しさに気づかされた者は自分ではどうしようもないので神様に救いを求めます。そして神様はその人を救ってくださるのです。
この神様は「高く聖なる所に住」んでおられる方。この方が、砕かれた人のいる低いところに来てくださるという不思議が、イエス様のご生涯において現わされました。イザヤ53:3で「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。」と描かれた「しもべ」である主の姿です。
この聖なるお方が、高いところから低いところ—―この地上に来てくださった圧倒的な愛と恵みを覚える日が安息日、今の日曜日です。日常の働きをやめて主の前に静まるというときです。「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日こそがユダヤ人を守ってきた」とも言われます。安息日の教えはイエスの時代には厳しい戒律と化していましたが、本来は、人間に「神のかたち」としての生き方を回復させるものです。神様から与えられた仕事を、神様のリズムの中で行うことに安息日の意味があるのです。
私たちは安息日ごとに創造の原点に立ち返り、またイエス・キリストの十字架と復活によって、人生を「のろい」から「祝福」へと移されたことを思い起こし、この世界の人々を「神の安息へと招く」(へブル4:1) ために遣わされています。
ですからまず私たち自身が、ここで神様の臨在に触れ、神様の安息を味わう者でありましょう。自分が味わっていないのに、どうして他の人に神様の素晴らしさや本当の安息を紹介できるでしょうか。すべてが神のあわれみから始まっているということをまず自分自身が味わう、そんな安息日を過ごしたいものです。



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