自由の使い方
- taiwanchurchtokyo
- 8月19日
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序(コリントという都市)
おはようございます。暑い日が続きますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今朝もともに礼拝を捧げることができる恵みを、主に感謝します。今日はパウロがコリントの教会に宛てた手紙から「自由」について考えていきましょう。
コリントはギリシャにある国際的な商業都市として繁栄している場所でした。陸路は、ギリシャの南北交通の要所、東西は、東はローマ、西はアジヤへ開かれる貿易の中継地だったので、恵まれた地理を生かして栄え、多くの人々が行き交っていました。
また、コリントは、古代オリンピック発祥の地である「オリンピヤ」と第1回現代オリンピックが開催された「アテネ」のちょうど真ん中あたりに位置していて、ここにも約2万人を収容する野外劇場があり、1年おきに競技大会が開かれていたそうです。
この手紙の中にも競技を使ったたとえがあることからも(9:24-27)、ここの人々にとってスポーツは馴染み深いものだと想像できます。
そして、人も物流も盛んに行き交うということは同時に、あらゆる宗教も混在していました。今は海外に行くことが簡単になったので、日本にも多くの外国の人がやってきて、東京では世界の様々な国の料理を食べられるようになりましたし、いろいろな国の文字が駅や街にあふれるようになりました。ショッピングモールでも祈祷室が設けられていたりします。
今から100年ちょっと前(1896年以来)のアメリカ古代研究所が行ったコリント発掘によって、この都市にはギリシャ・ローマの伝統的な神々の神殿だけでなく、エジプトやシリヤの神々を祀る神殿も存在していたことが分かったそうです。有名なところでは、町の南側にある標高575mの山(参考:高尾山は599m)の頂上に、美と愛の女神アフロディーテを祀る神殿があり、1,000人の巫女が神殿売春婦として仕えていたと言われています。経済的に繁栄し、宗教的な売春行為がまかり通っているこの町は不道徳な場所として知られていたのです。
パウロは第2回伝道旅行の時にここを訪れ(使徒18章)、1年半滞在して伝道しました。よい協力者(アキラとプリスキラ)も与えられ、大勢の人が救われてコリントの教会が誕生しました。
ところがパウロがコリントを離れてしばらくしてから、教会では分裂が起こり、様々な問題に直面していました。そこでパウロはその時の通信手段を用いて対応しようとしたのです。
1.偶像に備えられた肉
今日の箇所のテーマは「偶像に供えられた肉を食べても良いのか」という問題です。ギリシア・ローマ世界には多くの神殿があり、そこでは毎日動物のいけにえが捧げられていました。そしてその一部は捧げ物として焼かれましたが、残りは市場に払い下げられ、人々はそれを食肉として食べていました。
つまり、当時流通していた食肉の多くは「偶像に供えられた肉」だったのです。ユダヤ人クリスチャンたちは、その肉を食べることを「偶像礼拝」に当たると理解していました。ユダヤ人は律法の規定(レビ11章)によって、豚肉や異教の神殿に捧げられた動物の肉は汚れたものとして食べることを禁じられていたのです。
イエス・キリストの福音はユダヤから始まり、その後異邦人社会にも広がっていきました。すると、ユダヤ教における食事規定を異邦人にも適用するのかどうかが課題となりました。
初代教会のメンバーはほぼユダヤ人でしたから、この食事規定は大きな問題にはなりませんでした。ところが、福音が広がって、教会がギリシア・ローマ世界の各地に建てられていくにつれて、神殿に捧げられた肉を食べてもよいのかどうかが、教会を二分する問題になっていきました。というのも、新しく信仰をもった異邦人たちは平気でその肉を食べていたので、ユダヤ人クリスチャンがそれを見て、批判の声が高まっていったからです。
そのため、使徒15:20にあるように、エルサレムで開かれた会議において、異邦人も「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるよう」決定され、エルサレム教会の名で「偶像に供えられた肉は食べてはいけない」と諸教会に通知が出されました。
そのため「偶像に捧げられた肉を食べて良いのか」が、コリント教会においても問題になってきたわけです。皆さんがこの時代のコリントの教会のメンバーだったら、どのように考え、行動するでしょうか。
このコリントの教会が置かれている状況は、私たち日本の教会も似ているように思います。日本のクリスチャン人口は『キリスト教年鑑2018』によると97万6434人、日本の全人口のうち0.82%です。つまりこの国の多くが聖書の神さまを信じていない人たちで、この国には神社仏閣がたくさんあり、私たちは異教の世界に生きていると言えます。
その中で、聖書の神を信じる信仰を守ろうとする時、いろいろな壁にぶつかります。例えば、私が普段接している高校生に身近なところで言えば、日曜日に運動会や授業参観などの学校行事、部活や大会があれば、礼拝を休んでもよいのかという疑問や信仰の戦いがあります。彼らは友達や先生、親や教会の人たちの声を聞いて悩み葛藤します。礼拝が大切だと分かっちゃいるけど、でも仲間の目が気になる、自分だけ取り残されたくない、教会に言っているとは言えない・・・などなど。
また、大人も悩みます。親から継承した位牌や仏壇をどうすればよいのか、葬儀において焼香や合掌のような儀式にどう対応するのかなど、私たちがこの日本でキリスト者として歩んでいく時、折々に、社会とどのように折り合いをつけるかが課題となります。
コリント教会の異邦人クリスチャンたちは、自由を主張しました。彼らは言います。「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にどんな神もいない」、だから「別に、神殿に捧げられた肉を食べてもなんら汚れることはない」(8:4)と。
それに対してパウロは彼らの主張を認めます。「その通り!食べてもかまわない」とコリント教会に回答します。ユダヤ人のパウロが、エルサレム教会が決定した”偶像に捧げられた肉禁止令”から解放された発言をしていることは注目に値します。
しかしパウロは同時に、「食べることを罪だと考える人がいることをどう思うか」と問いかけたのです。ある人たちは、今まで偶像になじんできた習慣があるため、肉を食べる際に、それが偶像に捧げられた肉だということが頭から離れず、自分は罪を犯しているのではないかと良心の咎めを感じるのだと説明しました。
ここで論点は「偶像に捧げられた肉を食べても良いのかどうか」という教理上の問題から、「それを罪だと思う人にどう配慮するのか」という、牧会上の問題になっていきます。パウロは言います。8節「私たちを神の前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても得にはなません。」 その肉を食べるか、食べないかは信仰の本質に関わる問題ではない。だから食べても良いし、食べなくても良い。9節「ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。」と忠告しています。つまり、あなたがたの自由な態度が、弱い人々を罪に誘ってしまうことになるなら、自分の自由を主張してなお食べることは、罪であるとパウロは断言しているのです。
2.信仰の本質にかかわる問題では譲歩しない
どうやらこの教会内に「偶像の宮で食事をしている」(v.10)人がいたようですね。これは、偶像の祭りの祝宴に参加して食事をするという意味の言葉でした。
”この祭りに参加していても別に神様に対する自分の信仰は揺らがないし、神さまはこれっぽっちのこと、赦してくださる、私には自由があるんだ、問題ない!”などと言ってこれみよがしに食事をしていた人に、パウロは、”あなたの行動によってつまずき、滅んでしまう人がいるのだ。その人が滅びないためにイエス様が十字架にかかって死んでくださったというのに!”と語りかけているのです。
もはや問題は、肉を食べるか食べないかではなく、隣人をどう考えるかの問題です。「キリストがあなたがたのために死んでくださったのに、あなたがたは信仰の弱い人々のために、自分の食事を変えること、自分の自由が制限されることは嫌だというのですか」とパウロは問いかけます。そしてこう言うのです。(v.12)「あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。」
食べることが正しいかどうかではなく、「食べることによってつまずく人がいてもなお食べるのか」が重要なのです。そしてその答えは明らかです。パウロは言います。「食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。」(v.13) なんと言う宣言でしょう!
偶像に捧げられた肉を食べるかどうかは、信仰の本質に関わる問題ではありません。偶像の神などいないからです。しかし、食べることによってつまずく人がいるのに食べるのは、信仰の本質に関わる問題です。
日本のキリシタン禁制時代に用いられた踏み絵も、同じ問題を抱えていました。絵そのものはただの板に聖母子が描かれたもの。しかし、踏み絵を踏んだ人々の信仰は崩れたのです。それは人の前で、最も大事に思うものを踏みつけにする、自らの信仰告白を偽りと表明する行為だったからです。
私たちの信仰は、生活に現れます。私たちの行いが人を救うわけではありませんが、信仰は行いに表されます。例えば「どんな時にも、何があっても日曜日の礼拝をささげる」――その証しが、伝道になります。周りの人はそのあなたの行いを通してキリストに導かれます。
3.キリスト者の自由とは何か
1コリント10:23-24「『すべてのことが許されている。』と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。『すべてのことが許されている。』と言いますが、すべてのことが人を育てるとは限りません。だれでも、自分の利益を求めず、他の人の利益を求めなさい」
このようにパウロは偶像に捧げられた肉を食べることの議論を10章でも続けます。大事な問題だからです。パウロの態度ははっきりしています。
「市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。」(10:25)
そして(10:28)何でも食べてもよいが「しかし、だれかがあなたがたに『これは偶像にささげた肉です』と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために食べてはいけません。」と勧めます。その人がつまずくことを避けるためです。
私たちクリスチャンにとって大切なことが明らかになってきます。もう一度今日の初めの箇所、8:1を読んでみましょう。「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」 第三版では「愛は人の徳を建てます」と訳されていました。
これはギリシャ語で”オイコメドオー”、パウロが好んで用いた言葉の一つで(Ⅰコリ3:9,10,12,14、10:23、14:4,5,12,17,26、1テサ5:11)建てる、育てる、成長させると訳されています。つまり、パウロは「教会を立て上げていくのは知識ではなく、愛だ」とパウロは語っているのです。「知識」を蓄え、それによって武装し強くなっていくのではなく、「愛」を受け、愛に満たされて生きていくことが私たちの求めるべきものです。
パウロが語るクリスチャンの自由とは、「愛に根ざした自由」であり、隣人がつまずくのであれば、自分が正しいと思うことも断念する自由でした。それは、自分勝手なみことばの解釈ではなく、「地とそこに満ちているものは、主のもの」(10:26)という確信に立っています。与えられている自由を、自分を満足させるためには用いません。
私たちには自由があります。肉だけでなくお酒やたばこを嗜むことも自由です。(未成年でなければ!)けれど、妊娠した女性が胎児のためにお酒やたばこを控えるように、クリスチャンは隣人のために自分の自由を制約します。
何をしても良いのです。ただ、隣人を愛するがゆえに行動を制約します。クリスチャンの自由とは、自分の権利を相手のために放棄することです。イエス・キリストがこの世界に来て、私のために死んでくださった、この愛を知った時に私たちは変えられます。イエス様がまず背を向けていた私たちを赦してくださったのだから、私たちも他の人を赦します。たとえ誰かが私たちを憎み、裏切ろうと、私たちは仕返しすることをしません。イエス様はその人のためにも死んでくださったのですから。
結
様々な考え方があります。同じクリスチャンであっても、教会生活について、コロナ禍の過ごし方について、時間やお金の使い方について、優先順位の付け方について、意見が分かれることでしょう。私たちは、与えられている知識や自由を、人を愛するために、人の益となるように用いるものでありましょう。
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